田淵幸一の凄さが分かる名言・語録集!「うねり打法」を提唱する天才バッターの伝説エピソードから努力論まで
野球の大きな魅力のひとつである本塁打。目が覚めるような打球速度で、ライナーのままスタンドに飛び込む本塁打もあれば、ふわりと舞い上がるような高い軌道から大きくきれいな弧を描いて落ちてゆく打球もあります。前者の代表は大谷翔平でしょうし、後者の代表はその美しい打球の軌道から「ホームラン・アーチスト」という造語が作られた田淵幸一でしょう。
大学生の時から「法政三羽烏」のひとりとして名を知られ、「ホームラン・アーチスト」の異名を持ち、「三代目ミスター・タイガース」だと言う人もいます。また本人がモデルとなった人気漫画から「タブチくん」とも呼ばれ、野球ファン以外にも知られた田淵。
現役時代はケガなどアクシデントも多く、中には野球界のルールを変えさせるほどのケガを負ったこともありましたが、それがなければと思わせるシーズンがいくつもあり、「もしも」という空想を大いに抱かせる選手でもありました。
今回は選手時代に数々の異名を持ち、指導者としては「うねり打法」を取り入れた天才バッター、田淵幸一のさが分かる名言や語録を紐解き、伝説エピソードから努力論にまで迫ります。
田淵幸一のプロフィール詳細
まずは田淵幸一の経歴を追ってみます。
1946年9月24日生まれ、東京都豊島区出身。法政大学第一高校ではおしくも甲子園出場はならず、法政大学に進学。1年生の時から活躍し、当時の東京六大学リーグの本塁打記録を塗り替え、山本浩二、富田勝と共に「法政三羽烏」と呼ばれます。
多くの名選手を生んだ1968年のドラフトで、阪神タイガースの1位指名を受けますが、読売ジャイアンツも狙っていて、本人もジャイアンツ志望だったことからトレードなども画策されましたが、結局はタイガースに入団します。
プロ入り1年目から正捕手として22本塁打を放ち、新人王を獲得し、レギュラーとなります。2年目の8月に広島カープ外木場義郎から側頭部に死球を受け、耳から血が流れて意識を失い、全治3ヶ月の重症を負い、その後、プロ野球界ではヘルメットに耳当てをつけるのが義務化されます。
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1972年からはタイガースの主砲として5年連続30本塁打以上を放ち、1975年には13年間連続で本塁打王に輝いていた王貞治を上回り本塁打王になります。
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1978年、クラウンライターから球団を買い取った西武ライオンズが、新チームの柱としてタイガースから田淵と古沢憲司を獲得、ライオンズからは真弓明信、若菜嘉晴、竹之内雅史、竹田和史を放出する大型トレードが成立。
ライオンズ監督の広岡達郎のもと、徹底した栄養管理やトレーニングなどを行い、1塁手またはDHとして出場。1980年には43本塁打を記録するなど、主軸として活躍し、1982年、83年に日本一連覇を達成。特に83年は7月までハイペースで本塁打を量産し、セパ両リーグでの本塁打王達成が期待されましたが、死球による左手骨折で夢に終わりました。
1984年シーズン限りで引退。現役通算16年間で、1532安打、474本塁打、打率.260、新人王、本塁打王1回、ベストナイン5回、ダイヤモンドグラブ賞2回。
引退後は福岡ダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)の監督に就任。その後、親友星野仙一の要請でタイガースの打撃コーチとなり、手塚一志が提唱する「うねり打法」を取り入れた指導をします。星野とのコンビは続き、星野監督の下で北京オリンピック代表コーチ、東北楽天ゴールデンイーグルスのヘッドコーチを歴任しました。
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【名言語録その1】
「大きな、大きな壁だった。何度ぶつかってもはじき返された。でも逆にそんな王さんがいたから、僕もホームラン打者になれたんだと思う」
1974年には45本の本塁打を放った田淵ですが、王という絶対的な存在がタイトルの前に立ちふさがっていました。翌年、王が故障したこともあり、王の14年連続を阻み、本塁打王に輝きました。
「当時はまだビデオなんてなかった時代。目で見て盗むしかなかった。その意味では捕手というポジションはうってつけ。一番近くで王さんの打撃を見られたんだから」
田淵は王の打撃をつぶさに研究し、オールスター戦の際には長嶋茂雄に直接質問をしたこともあったそうです。野村克也は田淵が姿見の前で構えを気にしているのを見て声をかけると、「構えさえ決まれば打てるんです」と答えたという有名な逸話がありますし、江夏豊や大学の後輩である江本孟紀が、努力しなくても打てる天才打者だったと語る田淵ですが、当然、努力をしなかったわけではありません。
江夏に「受けた時にミットが動いてるで。外側に浮いとる」と言われてから、江夏の球威に負けないよう、ご飯やお風呂の時でも鉄アレイを手放さなかったそうです。
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どんな才能も、まったく努力をせずに開花することはないということでしょう。
【名言語録その2】
「優勝したかったんだよ」
西武ライオンズの監督だった広岡に対しては、当時、多くの選手が反発を抱いていました。その筆頭は東尾修ですが、日常生活の食事などまで徹底して管理する手法は、先駆的であり、今ならばプロとして当然ともいえます。
広岡によれば「当時、西武はベテラン選手が多く、自然食中心の生活を強いることで、故障の少ない体質に改善する必要があった」と語っています。しかし古き時代のよく飲み、よく食べ、よく遊べという雰囲気が残っていた野球界では、当然のように広岡の考えは敬遠されました。
しかし田淵は広岡いわく「田淵は素直に驚くほど積極的に体質改善に取り組んでくれた」そうで、彼が率先してくれたので助かったと言っています。田淵がそこまで頑張った理由が「優勝」でした。
マンガ「がんばれ!!タブチくん」では監督のヒロオカに嫌味を言われても、反省の色がない天然ボケのタブチくんですが、本物は「いくら打ったって、守れない選手なんてつかいませんよ」と広岡監督に言われても、腐らず真面目に体質改善と守備練習に取り組みました。
チーム内の広岡に対する反発も、田淵が優勝して広岡を胴上げし、最後に落としてやろうと提案し、うまく収めました。実際にリーグ優勝すると、東尾が「やるか」と言っても「日本一になったら給料があがる」と待たせて、日本一になると「こんな幸せな思いをさせてくれた監督を落とせるかい」と答えたそうです。
【名言語録その3】
「俺がバントを教えるかって?アホ、現役時代一回もバントしたことがない俺やぞ。教えられる訳ないやろ」
指導者としても監督やコーチを経験している田淵ですが、タイガースのコーチ時代に「うねり打法」というものを選手に伝授しています。提唱した手塚氏によれば、王や小笠原道大、中村紀洋などが、そういう打法をしているそうです。簡単に説明すれば、軸足のスパイクから順に下半身をひねり、スイングするというもの。実際にチーム打率は大きく向上しました。
打撃コーチとして上記のような発言をしていますが、正確にはルーキーイヤーにバントを命じられて失敗した記録があります。「そういう緻密なところは和田豊バッティングコーチにお任せや」と付け加えてて笑いをとっていますが、ひとりのコーチが何もかも自分で教えるのではなく、適材適所は重要ですし、なんとなく田淵の人の良さが感じられます。
江本によれば大学時代に「田淵さんだけが後輩を一度も殴らなかった。怒ったことすらない。心の広さ、優しさが人の良さに出ていた」と言っています。
星野監督とのコンビは、時に「お友だち」と揶揄されましたが、田淵は星野監督と話す時は必ず直立不動で、星野から「ふたりきりの時は仙ちゃんでいいよ」と言われても、「ケジメが大切なんだ」とそれを押し通し、星野も親友を怒られ役として、激しく怒鳴りつけていたそうです。かつて鉄拳制裁で恐れられた星野が、時代の変化とともにそれをしなくなった陰には、それをフォローしてくれた名参謀の島野育夫や奥さんを亡くしたことだけでなく、田淵という親友の人柄があったからかもしれません。
名言からの学び
・才能が豊かでも、常に研究や練習を怠らないからこそ、結果に結びつく。
・大きな目標を掲げることが、チームを結束させる。
・適材適所を考え、バックアップを惜しまないのもコーチングのひとつである。
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