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江夏豊の凄さが分かる名言・語録集!天才投手の努力論や人生哲学にも迫る!

2018/09/07


王貞治の通算868本塁打、金田正一の通算400勝と並び、日本プロ野球の絶対的なアンタッチャブルレコードのひとつが、シーズン401奪三振という記録です。達成者は史上最高の投手との呼び声もある江夏豊。

オールスター戦での9者連続三振。自らのサヨナラホームランで決めた延長11回を投げ切ってのノーヒットノーラン。日本シリーズでのいわゆる『江夏の21球』。36歳でのメジャーリーグ挑戦など、18年間の現役時代に数々の伝説を残しました。

初めは先発、後に抑えとして、史上初の100勝100セーブをあげますが、通算での206勝198セーブというのは、ひとりの投手が達成したものとして、空前の記録といえるでしょう。

今回は先発としても抑えとしても大活躍した、江夏豊の凄さが分かる名言や語録から、天才サウスポーの努力論や人生哲学にも迫ります。

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江夏豊について

まずは江夏豊の経歴を追ってみます。

1948年5月15日生まれ、兵庫県尼崎市出身。大阪学院高校からドラフト1位で阪神タイガースに入団
プロ入り当初はカーブすら投げられず、速球一辺倒でしたが、ルーキーイヤーから12勝をあげ、入団から9年連続で10勝以上を記録するなど、タイガースの大エースであった村山実と入れ替わるように、エースの座につきます。

1971年のオールスターゲームでは、セパ両リーグで首位打者をとった江藤慎一、通算2452安打465本塁打の土井正博、通算2000本以上の安打を記録した有藤通世と加藤秀司、3度本塁打王になった長池徳二といったそうそうたるメンバーを相手に、9者連続三振を奪います。
特に9人目の打者加藤秀司がファールフライを打った際、捕手の田淵幸一に「追うな」と叫んで、最後は三振に仕留めた逸話は語り草になっています。

1973年の中日ドラゴンズ戦では、延長11回までノーヒットノーランに抑え、その裏に自ら本塁打を放って、大記録を達成します。延長11回というのもすごいですが、決勝点を自らの本塁打で決めるというのも、大変な離れ業です。

1976年にはトレードで南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)に。そこで監督兼選手の野村克也と出会い、「野球界に革命を起こそう」と言われてリリーフに転向。
1977年に広島カープに移籍し、1979年近鉄バファローズ(現オリックスバファローズと合併)との日本シリーズで、作家の山際淳司いわく『江夏の21球』の伝説を残します。

その後、日本ハムファイターズ、西武ライオンズと移籍。1985年にはメジャーリーグに挑戦しますが、残念ながらメジャーには残れず引退しました。

MVP2回、最多勝2回、沢村賞1回、最優秀防御率1回、最多奪三振6回、最優秀救援投手5回。通算奪三振数は歴代5位、通算セーブ数は歴代7位です。

 

私が選ぶ、江夏豊の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「先発の時は3球三振で9回まで投げ、81球で抑えるのが夢やった。だけど、今は27球で終わりにするほうがすごいと思っている」

現在のプロ野球ではシーズンに200奪三振を奪えば、最多奪三振のタイトルが狙えます。しかし江夏はシーズンになんと401奪三振を記録しました。
もちろん今と違ってはっきりとローテーションが決まっている時代ではないので、投球回数も多く、単純に比較はできませんが、凄まじい記録です。

1968年に江夏はシーズン353奪三振という日本新記録を、狙いすまして王貞治から奪いました。タイ記録も王から奪い、次からの打者8人はわざと三振以外で打ち取り、新記録は再び王からというのを実際にやってのけました。

そのように先発投手時代の江夏は、オールスター戦の9者連続三振など、三振にこだわる投手だったといえます。だからこそ「81球」が理想だったのでしょう。

ところが名将野村のひと言でリリーフに転向し、投球術が変わります。血行障害に苦しんだせいもあるのでしょうが、現在のように抑えは1イニング限定ということではなく、シーズン平均で一試合およそ2イニングは投げていましたので、連投の疲れを残さないなど、「27球」を理想とする投球に変化したようです。

江夏の前にも「8時半の男」と言われた宮田征典のように、主にリリーフを仕事とする投手はいました。しかしロングリリーフも多く、イメージとしては中継ぎと抑えを合わせた役割を負っていました。それに比べると江夏は今でいう抑え投手のニュアンスが強い、最初のリリーフ投手ではないでしょうか。

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【名言語録その2】

「ピッチャーは一球で地獄を見る。バッターは一振りで天国へ上がれる。しかもピッチャーは一球では天国へ上がれない」

たった一球に泣いた投手は数えきれませんし、たった一振りで笑った打者も数えきれません。同じ野球選手だとはいえ、投手はひとつのミスが命取りになり、打者は7割凡退しても3割打てば一流です。

 

「俺は肩が完全に仕上がり、コントロールが完璧になるまでブルペンに審判を立たせなかった」

ここでのブルペンというのは、キャンプ中のブルペンです。プロ野球のキャンプでは、審判もシーズンに備えて、ブルペンで投球練習をする投手の球筋を見て、準備をします。しかし江夏は審判にコントロールが悪い投手だと先入観を持たれたくないので、完璧に仕上がるまで審判を入れなかったのだそうです。
江夏はそれほど勝つために、工夫とこだわりを持っていました

 

「プロは何が何でも勝つことや。卑怯とののしられようが、うしろから敵に斬り込んでいって、背中に一太刀浴びせたって構わんとワシは思う。ワシらはプロフェッショナルなんやから」

有名な『江夏の21球』のドラマは、味方のブルペンが動き始めたことへの反発や、マウンドに駆け寄った衣笠祥雄からのエールなど、様々な背景はあったものの、根本的にはプロフェッショナルである矜持と技術が、相手のスクイズを外すために、カーブの握りのままピッチアウトするという結果を導き出したのでしょう。

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【名言語録その3】

「野武士っていうのはのたれ死にが似合うよ」

誰もが認める偉大な投手だった江夏ですが、さまざまな確執もあり、引退式もないまま任意引退選手となりました。引退試合もあるスポーツ雑誌の編集長が企画し、草野球の球場で行われました。

しかし、その後、江夏は36歳でアメリカのメジャーリーグに挑戦します。
野茂英雄が数々のバッシングを受けながらもメジャーリーグへと羽ばたく、10年前のことです。日本人初のメジャーリーガー村上雅則が活躍した20年後のことでもあります。

年齢の問題もあり、結局メジャー入りはかないませんでしたが、パイオニアであるマッシー村上から野茂までの30年間で、日本人がメジャーリーガーに近づいた数少ないチャンスでした。

まさに野武士のように、無頼を突き通し、最後は華やかさとはかけ離れた形となった江夏

引退後にファンから、カープ時代に対戦したタイガースの川藤幸三に死球を与えた話について聞かれると、江夏は「川(川藤)は抑えても嬉しくもなんともない。俺の球を打てっこないし、三振とっても可哀想だし、一番いいのは当てることだなと」と答えました。

本気なのか冗談なのかわかりませんが、同じく野武士のような雰囲気を持っていた川藤に対する愛情が感じられます。

私生活で問題を起こし、世間を騒がせ、ファンを落胆させたこともありましたが、ゆっくり地道に更生した姿は、同じような騒動を起こしたかつてのスター選手清原和博のような者たちの、良い道標になるのではないでしょうか。

 

名言からの学び

・立場が変われば、考え方も変わる。責任をもって与えられたポジションが、人を作ることもある。

・プロフェッショナルであることを自覚し、努力した者にこそ、奇跡は起こる。

・挫折しても、チャレンジし続けることが、明日につながる道標となる。

 

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