落合博満監督の成績や年俸は?采配評価や天才バッターの伝説エピソードなども!
2017/08/13
日本プロ野球史上唯一最多の「3度の三冠王」に輝き、生涯通算打率では日本人選手の右打者で最高の3割1分0厘8毛を記録するなど、押しも押されもしない大打者として今もなお、その名を燦然と輝かせている落合博満氏。
突出した成績を残し続けた現役時代はもちろん、中日ドラゴンズの監督として現場復帰を果たした後も、輝かしい実績を積み重ねました。今回は、そんな落合氏の現役時代の成績や年俸の推移、采配についての評価、そして天才バッターの伝説エピソードをまとめてみました!
目次
落合博満監督の現役時代の成績や年俸は?
それでは早速、現役時代の年俸・成績の推移について見ていきます。
年俸推移(1979年~1998年)
年度 | 年俸 | 球団 | 背番号 |
1979年 | 360万円 | ロッテオリオンズ | 6 |
1980年 | 360万円 | ロッテオリオンズ | 6 |
1981年 | 540万円 | ロッテオリオンズ | 6 |
1982年 | 1600万円 | ロッテオリオンズ | 6 |
1983年 | 5400万円 | ロッテオリオンズ | 6 |
1984年 | 5940万円 | ロッテオリオンズ | 6 |
1985年 | 5940万円 | ロッテオリオンズ | 6 |
1986年 | 9700万円 | ロッテオリオンズ | 6 |
1987年 | 1億3000万円 | 中日ドラゴンズ | 6 |
1988年 | 1億3000万円 | 中日ドラゴンズ | 6 |
1989年 | 1億3000万円 | 中日ドラゴンズ | 6 |
1990年 | 1億6500万円 | 中日ドラゴンズ | 6 |
1991年 | 2億2000万円 | 中日ドラゴンズ | 6 |
1992年 | 3億円 | 中日ドラゴンズ | 6 |
1993年 | 2億5000万円 | 中日ドラゴンズ | 6 |
1994年 | 3億8000万円 | 読売ジャイアンツ | 60 |
1995年 | 3億8000万円 | 読売ジャイアンツ | 6 |
1996年 | 3億8000万円 | 読売ジャイアンツ | 6 |
1997年 | 3億円 | 日本ハムファイターズ | 3 |
1998年 | 3億円 | 日本ハムファイターズ | 3 |
成績推移(1979年~1998年)
年度 | 試合数 | 打率 | 本塁打 | 打点 |
1979年 | 36 | .234 | 2 | 7 |
1980年 | 57 | .283 | 15 | 32 |
1981年 | 127 | .326 | 33 | 90 |
1982年 | 128 | .325 | 32 | 99 |
1983年 | 119 | .332 | 25 | 75 |
1984年 | 129 | .314 | 33 | 94 |
1985年 | 130 | .367 | 52 | 146 |
1986年 | 123 | .360 | 50 | 116 |
1987年 | 125 | .331 | 28 | 85 |
1988年 | 130 | .293 | 32 | 95 |
1989年 | 130 | .321 | 40 | 116 |
1990年 | 131 | .290 | 34 | 102 |
1991年 | 112 | .340 | 37 | 91 |
1992年 | 116 | .292 | 22 | 71 |
1993年 | 119 | .285 | 17 | 65 |
1994年 | 129 | .280 | 15 | 68 |
1995年 | 117 | .311 | 17 | 65 |
1996年 | 106 | .301 | 21 | 86 |
1997年 | 113 | .262 | 3 | 43 |
1998年 | 59 | .235 | 2 | 18 |
通算20年 | 2236 | .311 | 510 | 1564 |
落合選手のプロ1年目の年俸は360万円。稀代の超一流選手の年俸としては考えられない数字ですが、これは約40年前のもの。そもそも、当時と今の物価そのものが全く違いますし、その後、年々高騰していったプロ野球選手の契約金や1年目の年俸、あるいは近年の平均年俸と比較するのは無為な作業ですね。
プロ初の昇給は2年目のオフ。打率.283、本塁打15、打点32の成績を残し、180万円アップを勝ち取りました。そしてレギュラーに定着し、初めて規定打席に到達して大きく飛躍した81年シーズンオフには3倍増。そこからさらに成績を伸ばして初のタイトル――しかも、「首位打者」「本塁打王」「打点王」の三冠王に輝いた82年シーズンオフには一気に3800万円アップの5400万円でサインしました。
ここからの突出した成績と着実な年俸アップは上記の表の通りですが、85年と86年の成績、ならびに年俸アップの数字は、まさに圧巻。2年連続で打率.360超は常軌を逸した数字と言えますし、この2年間で100本以上のホームランを打ち、250以上の打点を挙げていることには感服するしかありません。大打者・落合博満のキャリアにおいても特別の重みがある「2年連続3度目の三冠王」を成就した2シーズンでした。
ちなみに、中日ドラゴンズ移籍1年目の年俸1億3000万円は、日本人初の1億円プレーヤーとしての数字。その後しばらくは同額で推移していきますが、ドラゴンズ在籍5年目の91年に初めて2億円を突破しました。
なお、この年は、年俸を不服として2月に日本人選手として初めて調停を申請。シーズンイン後には肉離れで一時、戦線離脱するなど波乱の多い日々でしたが、最終的な成績は三部門とも決して悪くありませんでした。したがって、オフにジャスト3億円で契約更改したのも至極当然という印象でした。
92年の成績が芳しくなかったため、一年で2億円台に陥落しましたが、すぐに取り返すのがスタープレーヤーたる所以。史上初の両リーグ200本塁打を達成した93年シーズンオフ、導入されたばかりのFA制度を行使し、宣言後に読売ジャイアンツへ移籍。一個人事業主のプロに見合うだけの金額を提示して獲得に乗り出した同球団へ移ることは、ごく当たり前の流れだったようです。
2度のリーグ優勝に貢献した読売ジャイアンツでの3シーズンは成績・年俸ともに安定。現役最後の日本ハムファイターズ時代は力の衰えと共に成績は下がりましたが、引退する98年まで3億円をキープ。年俸面でも大打者の矜持を保ったまま、現役の幕を引いたと言っていいでしょう。
主な獲得タイトル一覧
そして、これまで獲得した主なタイトルは以下のとおりになります。
首位打者:5回(1981年・1982年・1983年・1985年・1986年)
本塁打王:5回(1982年・1985年・1986年・1990年・1991年)
打点王:5回(1982年・1985年・1986年・1989年・1990年)
最多勝利打点:5回(1982年・1985年・1988年・1989年・1993年)
最高出塁率:7回(1982年・1985年・1986年・1987年・1988年・1990年・1991年)
MVP:2回(1982年・1985年)
ベストナイン:10回(1981年・1982年=二塁手、1983年・1988年・1990年・1991年=一塁手、1984年・1985年・1986年・1989年=三塁手)
正力松太郎賞:1回(2007年)
野球殿堂競技者表彰:(2011年)
最優秀監督賞:(2011年)
首位打者5回は右打者のパ・リーグ記録。両リーグ本塁打王は史上初。両リーグ打点王も史上初で、現在でも唯一。そして、他のタイトルや表彰も、まさに枚挙にいとまなし…という印象で、落合選手がいかに突出した才能の持ち主であったかが容易にわかります。
監督としての采配の評価は?
トレードや大きな補強を行わず、「現有戦力の10%の底上げで優勝」を掲げて“有言実行”を成し遂げた監督1年目の2004年シーズン。春季キャンプ初日の紅白戦実施や、ドラゴンズに移籍後、一度も一軍のマウンドに上がっていなかった川崎憲次郎投手を開幕投手に指名するなど、奇策とも取れる手腕は“オレ流采配”とも称されました。
しかし、落合監督が推し進めていたのは「投手を中心としたディフェンス重視」の手堅い野球。強打者だった現役時代のイメージでは、派手に打ち勝つ野球を標榜するかと思われましたが、現実は全く違いました。
荒木雅博選手と井端弘和選手を“アライバ・コンビ”として一人前に育て上げ、森野将彦選手を三塁のレギュラー獲得まで進化させました。春季キャンプでは自らバットを持ってノックの雨を降らせ、特に森野選手に関しては「救急車を呼ぼうかと思った」と回顧したほど、徹底的に追い込んで鍛え上げました。常勝球団の中心選手として長年に渡って活躍した3選手を、誰もが認める一流の域までに押し上げたのは、落合監督の大きな功績と言えますね。
ただし、怪我人などのチーム内部の情報を一切口外しない、いわゆる秘密主義には一部ファンからも不満の声があったようですし、派手さのない地味な…良く言えば玄人好みの野球は、本拠地の観客動員減、延いては、2年連続リーグ優勝を成し遂げながらも監督退任となった11年シーズンの遠因とも言われました。
それでもやはり、プロの世界は結果が全てと言っても過言ではありません。「勝つことが最大のファンサービス」と繰り返していた監督生活8シーズンで4度のリーグ優勝、1度の日本一。3位に止まった08年シーズン以外は全て1位か2位で、ドラゴンズの常勝期、黄金時代を築き上げました功績は文句なしです。「名選手、必ずしも名監督に非ず」という球界の定説を見事に覆したと言いきれると思います。
天才バッターの伝説エピソード
ルーキーイヤーのこと。アッパースイングをレベルスイングに矯正しようとした当時の山内一弘監督の進言を、「高度で理解できない」として拒否。チームメイトだった土肥健二選手の柔らかいリストを生かした打ち方を参考にし、自己流でフォーム改造を図りました。
落合選手の代名詞ともいえる“神主打法”は、西武ライオンズの主戦投手だった松沼博久投手のインハイ攻めを攻略するために編み出したとされています。
打撃フォームを酷評した金田正一氏とは距離を置くようになり、それが後に、名球会入りを拒否する理由になったとか…。
打撃練習を至近距離で撮影しようとしたカメラマンを「危険だ」と何度も注意したものの、退去しなかったため、「狙って打つぞ」と宣言し、高価な機材を破壊。それでも、そのカメラマンは「迫力のある良い映像が撮れた」と後日、お礼を言いに来たそうです。
頭部付近に死球をもらった投手に対するお返しは、当該投手を狙った鋭い打球。強気な内角攻めで知られた東尾修投手が、この“被害”に遭ったこともあります。
キャンプとオープン戦は、あくまでもシーズン開幕に向けた調整期間。ひたすら緩い球を打ち続けたり、一度もバットを振らず、目慣らしだけでベンチに帰ってきたことも。
まとめ
・日本プロ野球史上唯一最多の「3度の三冠王」に輝き、生涯通算打率では日本人選手の右打者で最高の3割1分0厘8毛を記録するなどの大打者。
・監督生活8シーズンで4度のリーグ優勝、1度の日本一を成し遂げ、ドラゴンズの常勝期、黄金時代を築き上げた名監督。
・撮影カメラを破壊したり、死球をもらった投手を自らの打球で強襲してお返しするなど、天才バッターの伝説エピソードも多々あり。
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