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新庄剛志の凄さがわかる名言・語録集!愛される天才の伝説エピソードから人生哲学まで


「トリックスター」という言葉があります。既成概念を破るいたずらものとして神話や物語に登場する者のことです。

その破天荒な言動から長嶋茂雄をそうだったと言う人もいますが、その長嶋と同じようにホームランをふいにしたり、あるいは敬遠のボールをサヨナラ安打にしたり、オールスター戦でホームスチールを決めるなど、まさにトリックスターぶりを発揮した選手が新庄剛志です。

阪神タイガースでは人気の看板選手でしたが、無謀とか恥さらしとか通用しないと言われながらもメジャーリーグに挑戦し、その身体能力を生かした抜群の守備力と意外性のある打力で見事な活躍を見せました。また日本球界に復帰後は、北海道にフランチャイズを移したばかりの日本ハムファイターズの顔として、地域密着の流れを後押しし、プロ野球におけるファンサービスのあり方にも一石を投じました。

日本プロ野球で12年、メジャーリーグで3年の通算15年間で、ゴールデングラブ賞を10回も取ったこと以外に際立った記録はありませんが、間違いなくプロ野球ファンの記憶に残る名選手です。

今回はその強烈なキャラクターから、多くのファンに強い印象を与え続けた新庄剛志の凄さがわかる名言や語録を紐解き、愛される天才の伝説エピソードから人生哲学にまで迫ります。

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新庄剛志について

まずは新庄剛志の経歴を追ってみます。

1972年1月28日生まれ、長崎県下県郡(現対馬市)出身。小学生の時はソフトボール、中学生の時は軟式野球を経験し、西日本短期大学付属高校に入学してから硬式野球を始めました。

1989年のドラフトで阪神タイガースに5位指名を受け入団。プロ2年目に1軍に昇格。その明るいキャラクターから一躍人気者になりました。なかなか固定されなかった守備位置もセンターに決まり、その高い守備能力と強肩を生かしてゴールデングラブ賞の常連となります。

しかし1995年のオフには「野球センスがない」と引退宣言を行い、ファンを騒然とさせますが、様々な説得と父親の病気を気遣い、引退を撤回。実際には二軍監督やチームに対する不信感が騒動の原因だったのだとか。

1999年には敬遠のボールをサヨナラ安打にするなど、意表を突く活躍を見せていましたが、翌2000年にFA権を取得。タイガースの5年12億円という大型契約の提示を蹴って、メジャーリーグのニューヨークメッツに年俸2200万円で入団します。

活躍は難しいと疑問視する声が多く、恥をかくだけとまで批判する者もいた中、新庄は見事にそれをはね除け、新人では両リーグ最多の12捕殺やチーム最多の勝利打点を記録。2002年にはサンフランシスコジャイアンツに移籍し、日本人初のワールドシリーズに出場し、日本人初安打も放ちました。

2004年、日本プロ野球に復帰し、その年に北海道にフランチャイズを移動した日本ハムファイターズに入団。プレイだけでなく、「新庄劇場」とも呼ばれる様々なファンサービスを展開し、チームの顔となり2006年に引退。

日本プロ野球通算13年間で1309安打、本塁打205本、打率.254。メジャーリーグ3年間で215安打、本塁打20本、打率.245。ゴールデングラブ賞10回、ベストナイン3回。

超人的な守備力と意外性のある打撃が魅力の個性あふれる選手でした。

 

私が選ぶ、新庄剛志の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録集その1】

「いっぺんに聞くとわかりませんので、今日はこれくらいにしてください」

1999年シーズンよりタイガースの監督に就任した名将野村克也が、いろいろとバッティング理論を語るのに対して、新庄が放った言葉です。とはいえ理論派の野村に反発したわけではなく、新庄なりに多くを学んだようです。

1999年6月12日のジャイアンツ戦は延長12回に突入し、1死でランナーが1塁と3塁という状況で、その日3安打を放っている新庄に打席が回ります。ジャイアンツベンチは敬遠を選択。しかし槙原寛己の投球が敬遠にしては甘いので、一塁コーチの柏原純一と目配せをし、新庄は2球目を強引に打ちに行って、サヨナラ安打にしました。

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無謀なプレイにも思えますが、事前に敬遠の際にボールが甘ければ打ってもいいかと、柏原コーチと野村監督に了解を取っており、更に遊撃手が二塁ベース寄りに守っていたので、三遊間を狙い打ちしたものでした。

弱者が勝つための奇襲は、まさに野村監督が得意とする戦術であり、新庄はしっかりとそれを理解していたといえます。

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【名言語録集その2】

「やっと自分に合った環境を見つけました」

2000年のオフにFAを宣言した新庄ですが、タイガースは5年で12億円、横浜ベイスターズとヤクルトスワローズも3年で5億5千万円の条件提示をしますが、それらのオファーを蹴って、メジャーリーグのニューヨークメッツと年俸2200万円で契約します。上記はその時の言葉です。

メジャー挑戦のパイオニアだった野茂英雄は、どうせ通用しないという批判はもちろん、個人攻撃とも言える中傷を受けましたが、新庄もまた同様でした。

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特に日本人野手によるメジャー挑戦は、同じ年にイチローがポスティングでシアトルマリナーズへの入団が決まったのと合わせて初めてで、どこまで通用するのか未知数だったこともあったのでしょう。そのイチローは日本で規格外の選手です。一方の新庄は実力よりもキャラクター先行と見られていました。

しかし、新庄は見事に前評判を吹き飛ばし、抜群の守備力と勝負強いバッティングで活躍します。

 

「俺、毎日が日本シリーズなら4割打てるわ」

後にそんな言葉を残す新庄ですが、実際に大舞台には強く、オールスター戦でもよく活躍し、札幌ドームでは観客が満員の時、新庄の打率は4割を越えていたそうです。そして日本人初のワールドシリーズでの安打を放ちました。

 

「メジャー帰りで巨人はベタかなと思って」

本当は日本復帰の際に、最初に声をかけたのはジャイアンツだったそうですが、そう言ってファイターズを選んだのは正解でした。

まさにメジャー時代、そしてファイターズ時代と、自分に合った環境や舞台を手に入れた時の新庄は、眩い光を放つスターだったと思います。

 

【名言語録集その3】

「MVPは僕のものです」

ファイターズに入団後、札幌ドームでオールスターへの意気込みを聞かれた時の答えです。

2004年オールスター第2戦に出場した新庄は、第一打席でレフトスタンドを指し、予告ホームランのポーズをしておきながら、初球をセーフティーバントしてアウトになります。第二打席に二塁打で出塁すると、三塁に進んだ後、ホームスチールを敢行し成功させました。

これも破天荒なプレイに見えますが、実はしっかりと考えられたプレイで、新庄いわくマウンドに立っていた福原忍はゆっくり投げると「ちょっと球が浮く」し、捕手の矢野燿大は「捕球後、3塁を2度見て投手に返球する」という元タイガースの同僚ゆえに二人の癖を知っていたので成功したプレイでした。

2004年という新庄が日本プロ野球に復帰した年は、日本のプロ野球界は近鉄バファローズとオリックスブルーウェーブの合併発表を発端に、球界再編問題が勃発。

選手会の抗議による初のストライキが起こった年でもあります。そんな陰りを吹き飛ばすかのように、ストライキ明けの9月20日の試合で、新庄は9回裏2死満塁の場面でサヨナラ本塁打を放ちます。

しかし喜びのあまりに一塁走者の田中幸雄と抱き合って一回転。ランナーを追い越したことになり新庄はアウト。三塁走者はホームインしていたのでサヨナラ安打になりました。

ホームランは損をしましたが、プロ野球界の暗い影を払いのけるような、新庄の強烈なプレーが野球ファンを盛り上げ、球界再編は東北楽天ゴールデンイーグルスの新規参入で収束します。

そして引退の発表も劇的で、2006年4月18日、シーズン第1号ホームランを「28年間思う存分野球を楽しんだぜ。今年でユニフォームを脱ぎます打法」と命名し、引退を表明。

最後まで人騒がせな選手として、多くのファンを魅了しました。

 

名言からの学び

・真面目に見える者が理解を深めているとは限らない。

・環境が人の個性を引き出す。

・強烈な個性が世の中の空気を変えてしまうことがある。

 

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