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大野豊の凄さがわかる名言・語録集!かっこいい球界レジェンドの伝説エピソードから人生哲学まで


先発と抑えの両方で活躍し、100勝100セーブ以上を記録
した投手は日本プロ野球史上わずかに6人(日米通算だと8人)しかいません。しかも軟式野球出身で、プロ入りはテスト生、プロ1年目の防御率が135.50という逆境から這い上がったのが大野豊です。

やはり先発と抑えで活躍した名投手江夏豊にピッチングのノウハウを叩きこまれ、地道に努力を続けることで、時には抑えのエース、時には先発のエースとして広島カープを支えました。

日本人メジャーリーガーのパイオニアである野茂英雄がアメリカに渡る以前の、1993年にカリフォルニア・エンジェルス(現ロサンゼルス・エンジェルス・オブ・アナハイム)から獲得オファーがあり、38歳という年齢から断ったという大野。

その後、41歳で最優秀防御率のタイトル獲得している事から、決断次第によっては、もしかしたら野茂より前にメジャーリーグで活躍していたかもしれません。

今回は様々な逆境をはね返し、球界レジェンドのひとりとなった大野豊の凄さがわかる名言や語録を紐解き、伝説エピソードから人生哲学までに迫ります。

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大野豊について

まずは大野豊の経歴を追ってみます。

1955年8月30日生まれ、島根県出雲市出身。出雲商業高校から、母子家庭であったために軟式野球部しかない地元の出雲信用組合に入社。しかしプロに挑戦したい気持ちが消えず、高校の監督のツテで広島カープの入団テストを受け、1977年にドラフト外で入団

1年目は一軍で阪神タイガース戦に登板。1アウトしか奪えず、2四球、満塁ホームランも打たれて自責点5。防御率が135.50という最悪の結果で終えます。しかし当時カープの抑えのエースだった江夏豊が目をかけ、キャッチボールからピッチングの基礎を叩きこみ、徐々に才能が開花。中継ぎとして活躍します。

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1981年に江夏が日本ハムファイターズに去ると、その後釜として抑えに抜擢されます。1984年には先発に転向し、2年連続で防御率1点台という驚異の記録を打ち立てます。1991年には再び抑えとなり、最優秀救援投手にも輝きます。

1995年またもや先発陣に加わり、1998年には42歳にして開幕投手を務めました。21年連続勝利をあげるなど、長きにわたりカープを牽引し、1998年シーズンで引退。まだ40代まで現役でいられる選手が珍しい時代に、その鉄腕ぶりを見せてくれました。

現役通算22年間で、148勝138セーブ、沢村賞1回、最優秀防御率2回、最優秀救援投手1回。先発、中継ぎ、抑えと大車輪の活躍で積み重ねた登板数707イニングというのは、日本歴代13位の記録です。

引退後はカープの投手コーチ、オリンピック日本代表の投手コーチ、解説者などで活躍しています。

 

私が選ぶ、大野豊の凄さがわかる名言・語録

【名言・語録その1】

「元々テストという事でやってきたので常に原点」

出雲信用組合では軟式野球をやっていた大野ですが、読売ジャイアンツのエース菅野智之も子どもの頃に軟式をやっていて、それが役に立っているそうです。しかし大野は社会人野球なので、プロへの道は厳しかったといえます。

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中途半端が嫌だということで、チームの監督で常務に辞表を渡して、カープのテストを受けにいきましたが、常務は辞表はテストに合格した時のために預かり、とりあえず休暇届を出させたそうです。

プロに入り、1年目は1試合登板のみで散々な結果でした。たまたまその試合をテレビで見ていましたが、四球連発で満塁ホームランを食らったのを見て、正直なところ、このピッチャーは芽が出ないで終わるなと感じました。もしかするとこれがプロでの最初で最後の登板かもしれないとさえ思いました。

しかし大野はそこから見事に這い上がり、松井秀喜が「ベンチにいるだけで嫌だった」と言い、往年の名助っ人クロマティが「本当に打ちにくかった」と語るほどの投手になったのは驚きました。

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努力は必ず実るわけではありませんが、続けなければブレイクスルーは訪れないと、身をもって教えてくれます。

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【名言・語録その2】

「津田は投げたくても投げられない。でも、自分は投げられるじゃないか」

津田とは「炎のストッパー」と呼ばれたカープ伝説の守護神、津田恒実のことです。まだ現役だった時に脳腫瘍が見つかり、32歳の若さで亡くなりました。

1993年に津田とのダブルストッパーとなった大野は、抑えについて本当は「二度とやりたくない」と思っていたそうです。それだけしんどいという実感があったからです。しかし開幕してすぐ頭痛を訴える津田が離脱。津田の病状は夏頃に山本浩二監督からチームに伝えられました。それまで大野は脳腫瘍だとは知らなかったそうです。

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津田が亡くなった1993年7月30日はオールスター戦開催の日でした。9回に登板した大野は気迫あふれる投球で3者連続三振に打ち取ります。その迫力ある姿は津田に対する思いが伝わってきて、今も多くの人に語られる感動的なシーンでした。

そして抑えとして津田の思いも背負い、「津田が僕に力を貸してくれていた」と言うほどの快進撃でカープは優勝します。

その後、血行障害に苦しみながらも大野が42歳まで投げ続けられたのは、本人の努力や不遇な環境を乗り越える強い意志、同じように血行障害に苦しみながらも活躍し続けた恩師である江夏豊の姿があったのはもちろんですが、津田のように野球を続けたくとも続けられない人たちの姿も頭の中にあったのでしょう。

 

【名言・語録その3】

「我が選んだ道に悔いはなし」

1998年9月27日に引退試合で登板した後、広島市民球場でファンに向かって挨拶した時の言葉です。

1977年は防御率135.50で終わった大野ですが、翌年のキャンプで江夏豊が、当時カープの監督だった古葉竹識が計算外として考えていた大野を自分に預けるよう進言し、キャッチボールからしっかりと考えることを意識させ、厳しい指導で独り立ちさせました。

 

「あの出会いがなかったら、今の自分があったかどうか。1年で終わってもおかしくなかった私のプロ野球人生が、その後21年もの間続いた要因のひとつが江夏さんとの出会いであることは、言うまでもありません」

そう自著に記している大野ですが、中継ぎで始まり、抑えになって、先発に。そして再び抑えに変り、再び先発と、求められるポジションでしっかりと結果を残しました。そのしなやかさは投球フォームと同じで、折れない強さがありました。

投手コーチとしては賛否ありましたが、どんな場面であれ、投げられることに喜びを感じ、黙々とそれをこなしてきた大野だけに、現在のシステマチックすぎる継投には思う所があるのかもしれません。

 

「これは自然にずっとやって来た事なんで、自分の生き方ですから、まだこの先もこういう生き方をします」

その言葉通り、まさに悔いのない道を進むのが大野豊なのでしょう

 

名言からの学び

・一流になるには常に原点を忘れない事が大事。

・他者の姿から、自分のあるべき姿を思う。

・自分にとって自然な生き方をすることで悔いを残さない。

 

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