ルー・ゲーリッグの凄さが分かる名言・語録集!三冠王で史上最高の一塁手の伝説エピソードから努力論まで
メジャーリーグはもちろん、日本プロ野球においても、背番号が永久欠番になるというのは、チームが選手に贈る最大のリスペクトと言えるでしょう。野球界で初めてその栄誉を受けたのはニューヨーク・ヤンキースの背番号4番、ルー・ゲーリッグです。
ゲーリッグといえば、ベーブ・ルースと共にヤンキースのみならずメジャーを代表する伝説的な選手で、休まず試合に出続ける丈夫さから「アイアンホース」の異名を持ち、2130試合連続出場記録は1995年にカル・リプケン・ジュニアが破るまでメジャー記録でした。またシーズン184打点は今でもアメリカンリーグ記録です。
しかし「アイアンホース」は皮肉にも病によって引退を余儀なくされ、その命も奪われました。彼が患った病は筋萎縮性側索硬化症(ALS)という難病で、ゲーリッグにちなんで「ゲーリッグ病」とも呼ばれ、有名な物理学者のスティーブン・ホーキング博士なども、この病と戦っていたひとりです。
今回は病とも戦った「アイアンホース」ことルー・ゲーリッグの凄さが分かる名言や語録を紐解き、三冠王で史上最高の一塁手の伝説エピソードから努力論にまで迫ります。
ルー・ゲーリッグについて
まずはルー・ゲーリッグの経歴を追ってみます。
本名ヘンリー・ルイス・ゲーリッグ。1903年6月19日生まれ、アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク出身。生まれた時の体重が6.4キロという大きな赤ちゃんで、4人兄弟の他の3人が幼少期に亡くなる中、彼だけが生き残りました。野球選手としては17歳の時、シカゴでの試合で満塁場外ホームランを放ち、注目されるようになります。
その後、コロンビア大学に進学。アメリカンフットボールの選手として奨学金を得ましたが、1年次にニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)のマネージャーが大学スポーツの資格違反になり得るにも関わらず、サマー・プロフェッショナル・リーグのハートフォード・セネターズにヘンリー・ルイスの名前で所属させます。結果、12試合に出場し、大学でのプレー資格を失ってしまいました。2年生の時にアメリカンフットボールに復帰。3年生からは野球にも復帰を許されます。
1923年、ゲーリッグは大学3年生の4月にニューヨーク・ヤンキースと契約し、大学を中退。6月にはメジャーデビューを果たします。1925年にはレギュラーを獲得。1927年、打率.373、本塁打47本、打点175という大活躍をし、チームメイトで60本塁打を放ったベーブ・ルースを抑えてリーグMVPに輝きました。1926年から12年連続で打率3割を越え、1929年から9年連続で30本塁打以上、シーズン200本安打を通算8回など、様々な記録を残し、1934年には3冠王も取りました。
しかし1938年シーズンの半ばから、体調に異変が起こり、1939年の4月には自ら監督に申し出て、1925年から続いていた連続試合出場が2130試合で途切れます。その後、異変の原因が筋萎縮性側索硬化症であることがわかり、シーズン途中で引退を決意しました。
メジャーリーグ通算17年間で、2721安打、493本塁打、102盗塁、打率.340。MVP2回、首位打者1回、本塁打王3回、打点王5回。
感動的な引退セレモニーとメジャーリーグ史上初となる永久欠番、ファンの応援などを背に懸命の治療を続けたゲーリッグですが、1941年6月2日、「アイアンホース」はわずか37歳でこの世を去りました。
私が選ぶ、ルー・ゲーリッグの凄さがわかる名言・語録集
【名言語録その1】
「あれは野球で一番シンプルなプレーだった。その時、自分に何か問題があるんだとわかった」
そのプレーとは何でもないファーストゴロだったそうです。ゲーリッグとしては普通に捕球し、一塁のカバーに入った投手にトスしてアウトにしただけですが、チームメイトが口々にナイスプレーと言ってきたそうです。
1939年のことで、前年から身体の不調を感じていたゲーリッグは、この仲間の反応で「自分に何か問題がある」と、気付かされました。次の試合、ゲーリッグは自らジョー・マッカーシー監督のところへ行き「俺は下がるよ、ジョー」と言って、14年間で2130試合続いてきた連続出場を終わらせました。ゲーリッグの記録は1987年に広島東洋カープの衣笠祥雄が破るまで世界記録であり、メジャー記録としても1995年にカル・リプケン・ジュニアが破るまでナンバーワンでした。
もちろん怪我がまったく無かったわけではなく、2130試合の間、手首の骨には17ヶ所の裂傷を負いなから、試合に出続けていたそうです。それを破った衣笠祥雄もまた骨折してもなお試合に出続けたことがありますし、連続試合フルイニング出場の世界記録をもつ金本知憲も同様の状況でプレーし続けました。
怪我をしても出続けろという精神論はナンセンスですが、試合に出続けられるようコンディションを整える努力は並大抵のものではないと思います。球場のベンチにクッションが置かれたのをみて「野球選手は甘やかされるべきではない」と苦言を呈したというストイックさこそがゲーリッグの本質であり、だからこそシンプルなプレーが褒められてしまう状況に耐えられなかったのだろうと思います。まさに「アイアンホース」の矜持なのでしょう。
【名言語録その2】
「不運ではあったかもしれませんが、私の人生は本当に幸福でした」
原因不明の難病である筋萎縮性側索硬化症(ALS)にかかっていることをゲーリッグが知ったのは、連続試合出場記録が途切れてからおよそ1ヶ月半のちのことです。それから約85年たった現在でもALSの根本的な治療薬はなく、進行を遅らせ、症状を軽くする方法しかありません。
あまりの急展開に、ゲーリッグ自身も気持ちが追い付かなかっただろうと思います。しかし診断を受けた翌々日には引退を発表しました。そこには間違いなく本人の意思があったわけで、あまりにも潔い決断に驚かされます。
引退発表から約2週間後、1939年7月4日、アメリカの独立記念日でもあるこの日に、所属チームのヤンキースはルー・ゲーリッグ感謝デーとして、セレモニーを行いました。その際に行われたゲーリッグの感動的なスピーチは、いまだに語り草となっています。
「それでも私は、この地上で最も幸運な人間なのです。17年間もの間、野球場で皆さんからかけていただいた言葉はどれも厚意に満ち、勇気づけられるものだったのですから」
本音はどうあれ、不運を嘆かず、古きアメリカの男らしさを体現する言葉は、同じALSの患者のみならず、世界恐慌から波乱に満ちた時代に不安を感じていた人々を勇気づけたのです。
【名言語録その3】
「私はヒーローになりたいわけではないし、子どもみたいに泣きわめくのはもっと嫌だ。だけどこの病気が治るということがもしも事実なら、そのことは知りたい」
ALSと診断後、ゲーリッグはエレノア夫人宛の手紙に「10年から15年後には松葉杖生活かもしれない」と書いています。しかし病気の進行は予想以上に早く、夫人には「自分は果たして、あとどれだけ生きられるのだろうか」と弱気を見せることもありました。
1939年12月にALSから奇跡的に回復したという指揮者のアル・ライザーと対面したゲーリッグは、主治医に上記の言葉を綴った手紙を書きました。主治医は回復したというライザーはALSではなかったのだろうと思ったものの、同じように治る可能性があると返事を書いたといいます。
しかしグラウンドから去って、わずか2年にも満たない1941年6月2日、ゲーリッグは帰らぬ人となりました。
動的なベーブ・ルースとの比較で「静かなる英雄」とも呼ばれたゲーリックは、死期が近づいても「もしその時が来たとしても、私は冷静に受け入れるつもりだ」という言葉通り、静かにこの世を去ったそうです。最期まで彼らしい矜持を貫いた人生だったと思います。
ゲーリッグが亡くなって80年後となる2021年、メジャーリーグではゲーリッグの永久欠番4から「4-ALS」のロゴを作り、彼の命日である6月2日を「ルー・ゲーリッグ・デー」に制定しました。
今なお、ゲーリッグは多くの人たちに、大きな影響を与え続けているのです。
名言からの学び
・自分への矜持が一番自分を知っている
・本物は時代を象徴し、時代に影響を与える。
・レジェンドとは時代を越えて何かを伝えてくれる。
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