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レロン・リーの凄さが分かる名言・語録集!生涯打率NPB歴代1位の伝説エピソードから人生哲学まで

選手の生涯打率について、NPBでは通算4000打席以上の者に限り、ランキングを発表しています。2024年の規定打席数が443打席ですから、4000打席に到達するにはおよそ10年間はレギュラークラスで活躍しなければ到達しません。その生涯打率においてNPB歴代1位を誇るのがレロン・リーです。

レロン・リーが引退したのは1987年ですが、その生涯打率.320は40年近くたっても、いまだ更新されていません。また弟のレオン・リーも同時期にNPBで活躍し、生涯打率NPB歴代11位となる.308の記録を残しており、オールドファンならば歌手デビューまでした「リー・ブラザーズ」の活躍をよく覚えているはずです。

そのリー・ブラザーズに有藤通世、そして落合博満が並んだ当時のロッテ・オリオンズ(現千葉ロッテ・マリーンズ)打線は強力で、投手力さえ伴っていれば何年もパリーグの覇権を握っていたことでしょう。

今回は生涯打率NPB歴代1位レロン・リーの凄さが分かる名言や語録を紐解き、その伝説エピソードから人生哲学にまで迫ります。

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レロン・リーについて

まずはレロン・リーの経歴を追ってみます。

1948年3月4日生まれ、アメリカ合衆国カリフォルニア州ベーカーズフィールド出身。サクラメントのグラント高校を卒業しますが、アメリカンフットボールでいくつもの有力大学から奨学金の申し出がありました。しかしセントルイス・カージナルスからドラフト1巡目で指名され、入団を決めます。

マイナーリーグで好成績をおさめ、1969年のルーキーイヤーからメジャーリーグに昇格し、初安打を放ちます。1971年にサンディエゴ・パドレスにトレードされ、1972年には打率.300、12本塁打を記録します。1974年にクリーブランド・インディアンス(現クリーブランド・ガーディアンズ)に移籍、1975年にFAでロサンゼルス・ドジャースに移籍しましたが、出場機会に恵まれず、1977年にロッテ・オリオンズに入団しました。

入団1年目から主軸として活躍し、本塁打王と打点王の二冠に輝きます。ここから10年連続で打率3割、5度の30本塁打以上を記録します。翌1978年には弟のレオン・リーが加わり、1980年に首位打者を獲得。その後も安定した成績を残し続けました。しかし1987年シーズン終了後、翌年40歳という年齢などを理由に解雇され、引退します。

日本プロ野球通算11年間で1579安打、283本塁打、打率.320。首位打者1回、本塁打王1回、打点王1回、ベストナイン4回。通算打率.320は歴代1位11試合連続打点はパリーグ記録

メジャーリーグ通算8年間で404安打、31本塁打、打率.250。

引退後はオークランド・アスレチックス、シンシナティ・レッズでコーチ、アトランタ・ブレーブスのスカウトなどを務めています。

 

私が選ぶ、レロン・リーの凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「間違いなく王さんのお陰です」

メジャーでは選手会の代表としてストライキに関り、それを嫌がった球団にリリースされたというレロン・リー。ロッテでコーチをしていたジム・ラフィーバーに誘われて来日しました。キャンプではゴロしか打てず、スポーツ紙からは酷評されましたが、その後の大活躍で謝罪記事が出されました。

日本の投手を打てるきっかけとなったのは、王貞治からのアドバイスです。オープン戦で監督の金田正一が長嶋茂雄を通して王を紹介してくれたのだそうです。

王のアドバイスは、左打者にとって打撃のポイントは右手にあるというものでした。具体的には「バットを振る時に下の右手から動かすイメージを持つといい」という言葉だったそうです。「下の右手を意識すれば力みがなくなったファウルボールが減る。その結果、ホームランが増える」とのアドバイスをさっそく実践したレロン・リーは、実際に王が話してくれた通りの結果を出しました。

正直、素人には理解できない感覚ですが、一流は一流の言葉を理解し、実践できるものなのでしょう。

更にレロン・リーは言います。

「どんなスーパースターも翌日の試合に備えて陰では夜中に練習し、必死で努力しているものなんです。そういう事を日本で学んだんです」

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【名言語録その2】

「審判に文句を言う時間があったら自分の技術を磨いたほうがいい」

レロン・リーが日本で出会ったスーパースターは王貞治だけではありません。チームメイトには3度の3冠王に輝いた落合博満がいました。

「勝者には一喜一憂しない人が多いんです」

まさにその言葉通り、落合もまたホームランを放っても三振しても、ベンチでの雰囲気は変わりませんでした。しかし世の中には、その態度を良しとしない人たちもいました。落合もその冷たい洗礼を受けます。

「概して勝者は嫌われがちです。突出した選手になれば、技術力も精神力も周りの理解を超えることが多い。オチ(落合)もそうでした。ロッテ時代の彼は本当に圧倒的だった。3冠王もそうですが、85、86年はホームランを50本異常打っているわけですから」

レロン・リーは「勝者」のメンタリティを知り、不満があっても文句を言い返すのではなく、泰然自若とするのを良しとしました。

また監督だった金田正一によるランニング練習も学びのひとつでした。走ることで下半身を鍛えるのに重きを置いていた金田は、とにかく選手を走らせました。最初は反発したレロン・リーですが、それによって「人はその気になれば能力以上の力を出せる」ことを知ったそうです。

引退後にオークランド・アスレチックスの打撃コーチに就任した際、トレーニングのランニングを増やし、選手からは不評だったそうですが「私の指示通りに練習した選手はメジャーで成功しました」と語っています。実際、アスレチックスではワールドシリーズ制覇を達成しました。

 

【名言語録その3】

「私はモンスターとは呼ばれたくない。ナイスガイと呼ばれたい」

大活躍によって、スポーツ紙では「モンスター」との異名をつけられた時の言葉です。

性格はとにかく真面目で、試合が終わると部屋にこもって、好きな模型飛行機を何時間も組み立てていました。時に球場でそれを飛ばしていたそうです。しかし弟のレオン・リーも活躍するようになると、二人でレコードデビューし「ベースボール・ブギ」という曲をリリースするなど、お茶目な面も見えるようになりました。

西武ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)の左腕で変則サイドスローだった永射保を苦手としていて、どうせ打てないからと右打席に立ち、偶然ヒットを放ち「野球は何が起こるか分かりませんね」とうそぶいたこともあります。

そんな風に日本での野球や生活を楽しめるようになったきっかけは、ロッテのチームメイトたちの歓迎ぶりでした。鹿児島キャンプの際にチームメイトたちは彼を大浴場に引っ張り出し、一緒に桜島の絶景を眺めながら、湯につかったそうです。アメリカにいた頃は黒人である彼と風呂に入るとか、身体を洗い合うということは考えられなかったと、にこやかに語っています。

そこにはモンスターではなく、ナイスガイの素顔が垣間見えます。

 

名言からの学び

・一流は学びを欠かさない

・一流は努力を欠かさない

・一流は微笑を欠かさない

 

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