今岡誠の凄さが分かる名言・語録集!阪神の天才首位打者の伝説エピソードから努力論まで
「悪球打ち」と呼ばれる選手たちがいます。時にワンバウンドしたボールをヒットしたり、時にとんでもなく高いボールやデッドボールになりそうなボールをスタンドに運んだりするバッターです。あのイチローも「悪球打ち」で知られましたが、「悪球打ち」の多くはバットコントロールが上手く、三振の少ないアベレージヒッターで、そのひとりが今岡誠です。
時に「変態打法」とまで呼ばれた、天才的なインコース打ちで2003年には首位打者、2005年には打点王に輝いた今岡。特に打点王となったシーズン147打点は史上歴代3位となる記録であり、史上1位で161打点の小鶴誠が51本塁打、史上2位で153打点のロバート・ローズが37本塁打だったのに比べ、29本塁打でのこの記録は今岡の勝負強さを物語っている数字です。
闘志が表に出るタイプではないため、監督から厳しく言われることもありましたが、今岡が首位打者を獲った2003年と打点王を獲った2005年には、阪神タイガースがリーグ制覇を果たしており、虎党にとって今岡の活躍は忘れられないものになっています。
今回は勝負強い打撃でチームをリーグ優勝に導いた今岡誠の凄さが分かる名言や語録を紐解き、阪神の天才首位打者の伝説エピソードから努力論にまで迫ります。
今岡誠について
まずは今岡誠の経歴を追ってみます。
1974年9月11日生まれ、兵庫県宝塚市出身。野球の名門PL学園高校に進学し、高校3年の時に春の選抜大会に出場。ベスト8まで勝ち上がります。卒業時にはタイガースからドラフトの打診があったものの東洋大学に進学。東都リーグで活躍し、1996年のアトランタオリンピックの日本代表にも選出され、銀メダルに貢献。1996年のドラフトではタイガースを逆指名し、入団します。
ルーキーイヤーから1軍で主に3塁手と2塁手で98試合に出場し、2年目には遊撃手のレギュラーに抜擢されます。1999年からは周囲の期待に比べて伸び悩みますが、2002年に星野仙一監督就任と共に1番打者に固定されてブレイクし、初のシーズン3割と2桁本塁打を記録します。
2003年には首位打者を獲得し、シーズン先頭打者本塁打7本を放ち、うち5本は初球という歴代1位の記録を作り、チームの28年ぶりとなるリーグ優勝に大きく貢献します。2004年には3年連続で3割を打ち、初の20本以上の本塁打を記録。2005年にはプロ野球史上3位となる147打点を叩き出し、再びチームをリーグ優勝に導きます。
2006年、打撃フォームの改造や故障による手術などから出場機会を減らし、その後も調子を取り戻せぬまま、2009年に戦力外となり、千葉ロッテマリーンズに移籍。2011年シーズンをもって引退しました。
プロ通算15年間で1284安打、122本塁打、打率.279。首位打者1回、打点王1回、ベストナイン3回、ゴールデングラブ賞1回。
引退後は解説者、阪神タイガースコーチ、2018年からは千葉ロッテマリーンズで二軍監督を務めています。
私が選ぶ、今岡誠の凄さがわかる名言・語録集
【名言語録その1】
「努力だとか、ガムシャラさというのは口に出すものではない」
野村克也がタイガースの監督だった時、今岡のユニフォームが汚れていないことを指摘して、やる気が見えないことをぼやいたことがあります。野村はテスト生という、今ならば育成契約から這い上がっただけに、常にアピールし続けなければなりませんでした。それに対して今岡は野球の名門高校から東都リーグで活躍し、オリンピックにも選ばれた野球エリートです。その淡々と努力を見せない姿が、野村にはしっくりこなかったのでしょう。
野村克也監督の名言!苦労人の努力やリーダー論など人生哲学に迫る
監督が星野仙一に代わり、今岡は最初に「なんかお前、クソ生意気らしいな」と指摘され、続けて「好きなようにさしたるから、やってみろ」と言われました。面と向かってそう言われた今岡は「もう逃げ場がない。やるしかない」と思ったそうです。
星野仙一監督の凄さが分かる名言・語録集!伝説を残した名将の人生哲学やリーダー論とは?
「プロに入った頃、チームは最下位ばかり。だからグラウンドに出るのが嫌でしたね。他の球団の選手はよく『甲子園はいつも満員でいいね』って言うんですけど、弱くて満員って嫌なんですよ」
いくら負けても、根強い人気に支えられているタイガース。それは時に選手を鼓舞し、時に腐らせます。
特に星野監督はファンにも厳しさを求めるところがあり、それが今岡の勝ちたい思いとうまく一致し、「やるしかない」ところに追い込まれて、彼は覚醒したのだと思います。
【名言語録その2】
「5番としての147点は確かにすごい記録だけど、それはチームから長打を求められていたからであって、今思うと本来のスタイルではなかった気がするね」
2003年に首位打者を獲り、2005年に打点王に輝いた後、今岡は本気で本塁打王を狙っていた時期があったそうです。「35本くらいなら打てるんじゃないか」と考えていたそうですが、結果として打率が下がり、スタメンから外れるようにもなりました。
日本ではどのチームも「和製大砲」というものに、ロマンのようなものを抱き、常に待望論が起こります。それが時に長距離打者というよりはむしろ中距離打者にでも、「本塁打も打てる選手」から「本塁打が狙える選手」として、本塁打増産の期待がのしかかる場合があります。
今岡がもし左打者で俊足だったならば、誰もが中距離打者として納得していたと思いますが、シーズン20本以上の本塁打を放てば、岡田彰布のような右の大砲として期待されてしまうでしょうし、本人もその気になったとしても仕方がありません。
「それはええねん。高い目標を掲げて失敗しただけだから」
打点王の後、急激に成績が降下したのは、ケガのせいではなく、「自分のスタイルを変えて挑戦したら失敗した」のだと今岡は言い切ります。
「根本はそこ。当時は後悔もしたけど、今振り返ると、そのチャレンジは決して悪いことじゃなかったと思う」
それがあったからこそ「ランナーがいないときのヒットより、チームに点が入る凡打のほうが嬉しい」と言える選手になったのだと思います。
【名言語録その3】
「最下位ばっかりのチームが2位になると満足かもしれませんけど、一度優勝を味わうと、もう2位じゃダメだと勝手に思うようになる。そうなるとチームは変わる」
やはりプロスポーツは優勝することで選手のみならず、チーム全体やファンの見方も変わってきます。今岡が入団した頃には下位に沈んでいたタイガースですが、2003年と2005年に2度のリーグ優勝を経験した頃、甲子園球場は「弱くて満員」ということではなくなりました。
皮肉なことにそれに合わせて今岡は調子を落とし、戦力外となってマリーンズに移籍しますが、2010年にはマリーンズで日本一を経験します。
「チームリーダーっていうのは風上に立たな、ダメなんですよ。調子がいい時も悪い時もグラウンドにいないとダメだし、あれこれ言われんのも役割なのかな、と。そりゃあもう、メチャクチャしんどいと思いますよ。このチームにいたら、一番しんどいのはそこなんです。でも逆にそれが一番のやりがいでもあるんでしょうね」
若手の頃はユニフォームを汚さないと言われていた今岡ですが、晩年にはチームリーダーとして泥臭くチームの勝利に貢献したことが、今は指導者として生きているのだろうと思います。
今岡は「あなたにとって野球とは?」という問いに「普通ならここで『人生』と言う人が多いし、そう答えたらかっこいいんやろうけど、僕はそうだな、『家族』という言葉が一番しっくりくるね」と答えています。
今後、今岡が育てた子どもたちが、おおいに千葉マリンスタジアムを沸かせるに違いありません。
名言からの学び
・出会いが成長や覚醒のきっかけとなる。
・失敗を認めることが次のステップへ進む道である。
・勝つことでしか変わらないものがある。
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