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ヴィクトル・スタルヒンの凄さが分かる名言・語録集!旭川の英雄の伝説エピソードから人生哲学まで

日本プロ野球初の外国人選手は誰なのか?実はこの答えが案外難しいのです。

1934年に結成した大日本東京野球倶楽部(現読売ジャイアンツ)には、1931年からアメリカ遠征の全日本チームにプロ化を前提とした契約で日系二世の堀尾文人ことジミー堀尾が加わっています。しかしアメリカ国籍の堀尾ですが、日系人で全日本に加わっていることもあり、純粋な外国人選手第1号はヴィクトル・スタルヒンだとするものもあります

しかし、そのスタルヒンは帝政ロシアで起こったボリシェヴィキたちの革命に押されて、国を脱出した、いわゆる白系ロシア人であり、国籍は無国籍のままでした。堀尾が日本人の顔をした外国籍選手ならば、スタルヒンはロシア人の顔をした、ほぼ日本育ちの無国籍選手であり、外国人とは何なのかを考えさせられるところがあります。

更に戦前は外国人枠はないので、そもそも日本人選手と分けて考える必要もありませんし、今では陽岱鋼や李杜軒などのように日本で教育を受けた選手は、国籍に関係なく、外国人選手として登録はされませんから、日本で教育を受けているスタルヒンは、現在の基準ならば外国人選手とはみなされません

スタルヒンは日本プロ野球史上初の300勝投手であり、シーズン最多勝利となる42勝、通算最多完封の83完封など、球史に残る活躍を見せ、日本野球殿堂の競技者表彰第1号となり、亡命後に育った北海道旭川市の球場にはその名前が冠せられ、銅像も置かれています

まさに数奇で、激動の人生をおくったヴィクトル・スタルヒンの凄さが分かる名言や語録を紐解き、旭川の英雄の伝説エピソードから人生哲学にまで迫ります。

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ヴィクトル・スタルヒンについて

まずはヴィクトル・スタルヒンの経歴を追ってみます。

1916年5月1日、ロシア帝国のニジニ・タギルに生まれますが、ロシア革命の勃発により、当時日本が統治していた満州に一家で逃れ、1925年に大金を投じて日本へ亡命し、北海道旭川市にいわゆる「白系ロシア人」として無国籍のまま、移り住みます。

旧制旭川中学校(現旭川東高校)では北海道大会で2年連続準優勝。3年生の時に大日本東京野球倶楽部が、中退させて引き抜こうとしますが、アマチュア野球が盛んな時期でもあり、学校側や市民が抗議します。しかし読売新聞の正力松太郎が暗躍し、特高警察を使ったり、右翼の大物である頭山満に協力を仰いだり、更にはソ連の諜報員をほのめかした女性を殺害したことで服役中していた父親の減刑や、ソ連への強制送還などを突き付けるなどの行為があり、やむなく中退し、大日本東京野球倶楽部へ入団、アメリカ遠征などに参加します。

1936年に日本職業野球連盟の設立により、プロ野球としてのリーグ戦が始まると、大日本東京野球倶楽部から発展した東京巨人軍(現読売ジャイアンツ)に所属。剛速球で勝ち星を重ねてチームを支え、1938年から43年までの6連覇に貢献します。

1937年にはノーヒットノーラン、1939年には史上最多となるシーズン42勝、プロ野球史上初の100勝も達成しています。1940年には前年のノモンハン事件勃発もあり、国民感情を考慮して須田博と改名。太平洋戦争時の1944年にプロ野球球史後には、「敵性国民」として軟禁されます。ついには1945年、巨人はスタルヒンをチームから追放します。

戦後は進駐軍で働いていましたが、1946年に慕っていた藤本定義が率いるパシフィックに入団。その後も藤本に従い、1948年に金星スターズ、1954年には藤本の勧めで高橋ユニオンに入団し、1955年史上初の300勝を記録し、引退。

プロ通算19年間で303勝、防御率2.09。MVP2回、最多勝利6回、最優秀防御率1回、最多奪三振2回。通算83完封は史上1位の記録です。

1957年1月、車で列車と衝突し、死去。波乱に満ちた生涯を終えました。まだ40歳でした。

 

私が選ぶ、ヴィクトル・スタルヒンの凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「外人が多いですね」

大日本東京野球倶楽部でアメリカ遠征に行った際、スタルヒンがそうつぶやき、チームメイトは「お前が言うな」と笑ったそうです。白系ロシア人として亡命してきたスタルヒンですが、同じく日本に政治亡命してきた白系ロシア人は案外多く、洋菓子の「モロゾフ」の創業者やゲームで有名な「タイトー」の創業者もそうです。

日本にたどり着くまでに、多額の費用を使わざるを得なかったスタルヒン一家は貧乏で、彼もロシアパンを売って生活費を稼いでいたそうです。それを買ってあげていた少年たちが、見返りとして野球チームに誘い入れたのが、野球との接点だと伝えられています。そして12歳くらいの時には同年代では歯が立たず、大人でもなかなか打てないと評判になっていたそうです。

外国人として初めはいじめにもあったようですが、野球で頭角を現すと、旭川の人々は彼の生い立ちもあって応援するようになりました。父親が殺人を犯した後も、町の人たちは彼らに同情的だったといいます。そんな環境で育ったせいか、彼は「日本人以上に日本人らしい」と呼ばれるほどで、「外人が多いですね」という感覚も実に日本人的な反応だなと思います。

しかし誰よりも日本人らしいスタルヒンですが、戦前にはさまざまな妨害で日本国籍を取得できず、戦中は「敵性国民」として軟禁されてチームを追放され、結局、無国籍のまま日本で生き、日本で亡くなりました。

令和に入り、世界では人種差別について改めて問題になっています。日本のアスリートも多数賛同し、話題になりましたが、スタルヒンの生涯は差別や難民の問題を考える一助になるように思います。

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【名言語録その2】

「日米野球の沢村は僕より速かった」

沢村とは日米野球でベーブ・ルースらを相手に快投を見せ、惜しくも後に戦死した沢村栄治です。

戦前を知る野球人たちの話の中で、一番速かったのは誰かという話題になると、必ず比べられるのが沢村とスタルヒンです。

対戦者やチームメイトたちの話を総合すると、球速は沢村の方が速くて、いわゆる伸びのある速球だったようです。その代わりに球質は軽かったと伝えられています。一方、スタルヒンは球質の重い剛速球で、なかなか前に飛ばない印象だったそうです。

残された映像を分析した中京大学の湯浅景元教授によれば、沢村の速球は160キロ、スタルヒンは157キロだったと推測しています。少なくとも191センチの長身だったスタルヒンですから、それくらいの球速があっても不思議ではないように思います。

スタルヒンが慕っていた藤本定義はスタルヒンに「沢村の隣では投げるな。自分の球が遅いと気にするから」と話していたそうです。

千葉茂によるとスタルヒンは喜怒哀楽がはっきりしていて、ファインプレーをすると素直に大喜びし、エラーをすると慰めてくれるような性格だったと話しています。今でいうルーティンを持っていて、いつもバスタオルに着替え用のアンダーシャツを包んでベンチに持ってくるそうで、その置き場所が常に決まっていました。スタルヒンが打者としてベンチを出る時には決まって千葉に「動かさないように」と見張り番を頼みました。誰かがイタズラして動かすと、怒りだすのだそうです。

そんな素直で分かりやすい性格のスタルヒンだけに、沢村に対する感想は言葉通りに受け取っていいのではないかと思います。戦後にも二人の対戦を見たかった気がしますが、ただもし沢村が戦死していなかったとしても、軍隊での手榴弾投擲で肩を痛めており、プロ野球に復帰できたかは微妙です。戦中に「敵性国民」とされ軟禁までされたスタルヒンですが、唯一良かったことは日本国籍を取れなかったために徴兵されなかったことかもしれません。

沢村栄治の凄さがわかる名言集!球界レジェンドのエピソードや人生哲学にも迫る!

 

【名言語録その3】

「野球人生、僕は裏切られっぱなしだった」

スタルヒンが引退した時に残した言葉です。大日本東京野球倶楽部が彼を誘った方法は、勧誘ではなくほぼ脅迫です。それがまかり通る時代でもありました。更に巨人は「敵性国民」として彼を追放しておきながら、戦後になると自らの保有権を主張し、他チームとの契約に横槍を入れ、引退の際にも引退興行をやると約束をしておきながら反故にしました。

ロシア革命、太平洋戦争、父の殺人と、さまざまな暴力に翻弄されたスタルヒンですが、自分を日本の社会に迎える力となってくれた野球の世界でも、周囲の思惑で翻弄されてしまいました。

そのせいか引退後も、熱望していた日本国籍の取得には動かず、娘のナターシャさんによれば「引退後の2年間は誰にも触れられたくない人生の一部分だった」そうです。

早すぎる事故死もナターシャさん曰く「死にはいささか不審な点がある」としており、死してなお波乱に満ちています。

ただ旭川市民はスタルヒンを「同郷」の者として愛しており、市営の野球場は通称「旭川スタルヒン球場」として整備され、プロ野球の公式戦が開催されており、たくさんの選手たちがこの偉大な先人の銅像に黙祷を捧げています

 


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名言からの学び

・どんなスポーツのルールにも人種による規定はない。

・平和でなければスポーツは成り立たない

・人を裏切るのは常に人である。

 

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