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原貢監督の凄さが分かる名言・語録集!アマチュア野球の名将の伝説エピソードから指導法まで


父子鷹という言葉があります。父子が同じ世界で活躍することを表した言葉で、芸能界や政界などではよく見かけます。しかし野球界では少なく、長嶋茂雄と一茂、野村克也と克則の親子は有名ですが、親子の実績が違い過ぎます。黒田一博と博樹がプロ同士としてもっとも成功した例かもしれません。しかしアマチュアでの実績を加味すれば忘れられない父子鷹がいます。原辰徳とその父である原貢です。

原貢はまったく無名の三池工業高校を甲子園出場に導き、東海大学付属相模高校では8度甲子園の土を踏み、夏の選手権大会では優勝、春の選抜大会では準優勝を勝ち取り、東海大学ではリーグ7連覇を含む13回のリーグ制覇を成し遂げたアマチュア野球の名将です。

特に息子の辰徳と共に高校、大学とアマチュア野球界を席巻した姿は、まさに父子鷹として日本野球史に残る活躍でした。

今回は原辰徳の父親であり、アマチュア野球の名将である原貢監督の凄さが分かる名言や語録を紐解き、その伝説エピソードから指導法にまで迫ります。

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原貢について

まずは原貢の経歴を追ってみます。

1936年3月30日生まれ、佐賀県神埼郡出身。鳥栖工業高校を卒業後、立命館大学に入りますが中退し、東洋高圧大牟田(現三井化学)に入社。その後、三池工業高校を率いて夏の選手権大会で甲子園初出場初優勝。東海大学付属相模高校に招聘され、春の選抜大会で2度、夏の選手権大会で6度の甲子園出場を果たし、1970年の選手権大会で優勝を遂げました。

1977年に息子の辰徳が東海大学に進学したのに合わせ、東海大学の硬式野球部監督に就任。東海大学は東京六大学リーグ、東都大学リーグに続いて生まれた首都大学リーグの所属であり、特に注目されるチームではありませんでしたが、辰徳の人気と、リーグ7連覇の実績で、東海大学を野球の強豪として全国区へと押し上げました。

1980年に東海大学相模高校に戻り、1984年からは東海大学系列校の野球部総監督を務め、1990年に再び東海大学監督となり6度のリーグ優勝、1996年に一線を退き、また東海大学系列校の野球部総監督となります。

2014年5月29日に永眠。東海大学より野球部名誉総監督の称号を贈られました。

 

私が選ぶ、原貢の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「ボールが体に当たると痛いということを知るのが、野球の出発点」

原が監督として最初に手腕を発揮したのは三池工業高校です。三池工業高校のある福岡県三池郡(現大牟田市)は炭鉱の町でした。原が野球部監督に就任した頃は、高度経済成長期を迎えて、エネルギーの基軸が石炭から石油に代わろうとしている時期であり、三池でも三井三池炭鉱で激しく続いた労働争議や、1963年に粉塵爆発事故で458名が亡くなった事故もあり、町は暗い雰囲気に包まれていました。そんな中、特別ではないチームが、猛練習で必死でボールに食らいつき、甲子園初出場を果たし、全国制覇したことは、町の大きな希望となり、全国的にも注目を浴びました。

まったくの無名校を甲子園優勝に導いた過程は本にもなっていますが、いわゆるスパルタで鉄拳制裁もいとわない指導方法であり、当時はそれもひとつの手段として黙認された時代でした。今ならばいろいろと問題になるでしょうし、鉄拳制裁はダメにしても、いつの時代であれスポーツの世界では必ず何らかの痛みを伴います。

 

「大事な順番は、心体技」

原はそう語っていますが、時速100キロを越える速度で飛び交う硬式ボールは、当たり所が悪ければ重大な事故を引き起こす道具です。技術がなければ打つことも捕球もままなりませんが、そのためにはバットを振ったりグローブを構える体力が必要であり、何よりも恐がらずに立ち向かい、力と技を身に着けるため、様々な痛みに耐える心の強さが必要です。

その意味で、ボールが当る痛みは、野球のみならずスポーツの原点かもしれません。

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【名言語録その2】

「日本の野球は武道の野球だよ」

原と仲が良かった権藤博は、原について「苦労人ならではの厳しさと九州男児の激しさ」を持っていたと話しています。

その厳しさと激しさは息子である辰徳にも向けられ、東海大学相模高校の頃、辰徳は他の選手以上に厳しく叱責され、激しく殴られたそうです。内野ノックの際にもホームからわずか5メートル先のところでノックを受けさせられるなど、父子の甘さとは無縁のしごきに合いました。

 

「他の選手と五分五分の力だったら、お前は補欠だ。お前が6で他が4でも、俺はお前を補欠にするだろう。お前が7の力を蓄えて、初めて俺はどうするか考える」

高校入学の際に辰徳は、父にそう言われたそうです。その厳しさに反発を感じた時もあったようですが、辰徳は父がなくなった時、次のように思い出を語りました。

「家にもどってくると親父は野球の話を一切しないんだ。食卓で一緒に座ると『おい、これも食べろよ』と言って笑いながら、目の前に並んだおかずを勧めてくれる。この人はジキルとハイドなんじゃないかなと首を傾げたこともあったけど、最後はこう思ったよね。ああ、やっぱり俺のことを一番思ってくれる大切な親父なんだなってさ

そこには古臭いかもしれませんが、武道などの修行に通じる何かが、あるように思います。

原辰徳監督の名言!名将のリーダーシップ論や人生哲学に迫る

 

【名言語録その3】

「野球は人間性だぞ」

東海大学の出身で、メジャーリーグでも活躍した大塚晶文が独立リーグの信濃グランローズの監督に就任した時、原に言われた言葉です。

その大塚は原について「厳しい面を強調されがちですが、素顔は優しい人でした」と話しています。

大塚が大学3年の時、右人差し指の血行障害が起こりました。原は大塚に「長崎に行くぞ」と言われ、氣功の施術者のところへ連れていってくれたのですが、飛行機代も施術代もすべて原が出してくれました。施術後、長崎といえばちゃんぽんだと、タクシー運転手にうまい店に連れて行ってくれるよう頼んだら、着いた先は全国チェーンのリンガーハットで、納得できなかった原は空港でまたちゃんぽんを注文したそうです。

また原は「俺の孫を必ずドラフト1位で巨人に入れてみせる」と語っていましたが、実際に孫の菅野智之が2012年のドラフト1位で巨人に入団します。それに関して前年の北海道日本ハムファイターズによる強行指名に対して猛抗議をするなど、その賛否はいろいろありますが、野球人としての面よりも、祖父としての面が、顔をのぞかせたのかもしれません。

そんな人間味もまた原らしさなのでしょう。


炭鉱町に咲いた原貢野球 三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡 (集英社文庫(日本)) [ 澤宮 優 ]

 

名言からの学び

・成長には痛みが伴う。

・何かを成すには心の修練も必要である。

・人間性は指導力につながる。

 

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