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岩村明憲の凄さが分かる名言・語録集!日本代表メジャーリーガーの伝説エピソードから努力論まで


1995年に野茂英雄がメジャーリーグに挑戦してから2020年までの間、2017年だけを除いて、毎年メジャーリーグに挑む日本人選手が現れています。その中で投手は即戦力として重宝されていますし、外野手もイチローや松井秀喜が大活躍をしていますが、内野手はなかなか苦戦しているようです。内野手でこれまでもっとも出場試合数が多かったのは松井稼頭央の630試合、第2位は井口資仁の493試合、そして第3位は岩村明憲の408試合です。

走攻守と高いレベルを誇った岩村ですが、特筆すべきは併殺打の少なさです。日米通算17年間で1602試合6279打席のうち併殺打はわずか55。たとえば同じ左打者の鳥谷敬が2020年まで同じ17年間で2211試合8686打席で併殺打が161であり、安打製造機の篠塚和典が18年間で1651試合6154打席で併殺打が115だったのと比較すると、その少なさがわかります。

岩村はヤクルトスワローズ(現東京ヤクルトスワローズ)時代、主に3番、5番、6番辺りを打っていたことを考えると、ランナーを置いた打席も多かった筈で、この併殺打の少なさは彼のプレイスタイルを反映したものであり、座右の銘である「何苦楚魂」を体現した結果であるように思います。

今回は日本代表メジャーリーガーだった岩村明憲の凄さが分かる名言や語録を紐解き、その伝説エピソードから努力論にまで迫ります。

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岩村明憲について

まずは岩村明憲の経歴を追ってみます。

1979年2月9日生まれ、愛媛県宇和島市出身。宇和島東高校に進学し、甲子園出場はありませんでしたが、その打撃力に注目が集まり、全日本高校選抜の4番を任せられました。1996年のドラフトでヤクルトスワローズから2位指名を受け、入団します。

プロ2年目の1998年に1軍初出場を果たします。翌1999年に初安打、初本塁打を記録。規定不足ながらも好成績を残し、2000年に3塁手のレギュラーに抜擢され、18本塁打、13盗塁を決め、ゴールデングラブ賞も獲得しました。2001年にはリーグ優勝に貢献し、日本シリーズで優秀選手賞に選ばれ、2002年には初の打率3割、20本塁打を記録。ベストナインに選出されます。2003年には故障に苦しみましたが、2004年に40本塁打に100打点をあげます。そこから2006年まで3年連続3割30本塁打を達成し、2006年の第1回WBCでは日本代表として活躍しました。

2006年オフにポスティング制度を利用し、メジャーリーグ移籍を決断。2007年からはタンパベイデビルレイズ(現タンパベイレイズ)に入団します。2007年は3塁手、2008年には2塁手として活躍し、この年のワールドシリーズ進出に貢献しました。2009年、第2回WBCでも中心選手として連続優勝を勝ち取りましたが、シーズン中に負傷。オフにピッツバーグパイレーツに移籍となります。2010年は不振に陥り、9月にオークランドアスレチックスにチームを変えますが結果が出せませんでした。

2011年に日本球界に復帰し、東北楽天ゴールデンイーグルスに入団。負傷もあり、結果が出ず、2012年オフに戦力外となり、スワローズに復帰。2014年オフに再び戦力外となります。

日本プロ野球で通算14年、1172安打、193本塁打、67盗塁、打率.290。ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞6回。メジャーリーグで通算4年、413安打、16本塁打、32盗塁、打率.267。

2015年からは独立リーグの福島ホープスで選手兼監督に就任。2017年オフに引退。2019年からは岩村が社長となる新組織を立ち上げ、福島レッドホープスとして再スタートを切りました。

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私が選ぶ、岩村明憲の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「何のためプレーしているか。所属しているチームが勝つことですよね」

ポスティング制度を利用してメジャーに移籍した岩村ですが、タンパベイデビルレイズは伸び盛りの若手が多いチームでした。マドン監督はよく野球を知っている岩村をあえて1番打者として起用し、チームを牽引してくれるのを期待しました。岩村は監督とよく話し合い、その期待に応えました。

たとえば若くて才能にあふれたジャスティン・アプトン外野手には、本塁などへの送球の際に、内野手の中継プレーを使わずにダイレクトで返球し、結果としてバッターランナーの進塁を許すプレイなどについて、注意を促していたそうです。

岩村は日本でシーズン44本塁打を放ったスラッガーですが、メジャーでは「個人成績なんてクソ食らえ。チームが勝てば何だっていい」と自分に求められる役割をしっかりとこなし、監督の信頼を勝ち取り、チームがワールドシリーズに進出する原動力のひとつとなりました。

郷に入っては郷に従え、と言いますが、それを実行できる技術と切り替える心の強さこそ、岩村の武器だったのだろうと思います。

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【名言語録その2】

「ユニフォームに描かれている日の丸は小さいですが、背負う重圧は並大抵のものではありませんでした」

第1回と第2回のWBCに日本代表として出場した岩村ですが、その重圧はすさまじいもので、特に第1回で優勝したため、第2回は勝って当たり前という空気があり、大きなプレッシャーを感じ続けていたそうです。大会開催前に宮崎で行われた合宿の際には、初日に観客が5万人以上も集まり、練習でもミスをするたびに観客のため息が聞こえて、それが辛かったと岩村は回想しています。

そして岩村は2004年に起きた球界再編事件で奮闘する選手会長だった古田敦也の姿を間近に見ています。その古田が選手兼監督として、チームに残るよう懇願し、岩村はメジャー挑戦を1年伸ばすのですが、「思えば古田さんの背中を間近で見つめたあの1年があったからこそ、僕は今、前を向けるんです」と独立リーグの監督兼選手として頑張ることができた背景を語っています。

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またメジャーから日本に復帰した際には、東日本大震災で大きく傷ついた東北の地にフランチャイズを置く東北楽天ゴールデンイーグルスに入団しましたが、2年間思った成績は残せず「その2年間はふがいなくて、自分の中では悔しいシーズンだったので、心残りがどうしてもあった」と言います。

そういったプレッシャーや経験、そして心残りなどを積み重ねた岩村だからこそ、経営難に陥っていた福島ホープスを自らが代表となり支えることで再生させ、より発展させようと立ち上がったのでしょう。

 

【名言語録その3】

「負けている状況で自分が出てしまったら、このチームの未来はないですから」

独立リーグの監督権選手として注目されたのは「代打、オレ」という、まさに古田敦也がスワローズの監督権選手だった時にマスコミが追いかけたものと同じでした。しかし岩村はNPBを目指す選手のことを考え、チャンスで自分が代打に出ることはしませんでした。

そんな岩村だからこそ、福島ホープスの経営立て直しを託されたわけですが、「野球選手上がりがそんなことできるわけねえだろう、と思われるのが一番悔しい。意地でもやってやろう」と思いを語っています。

岩村が座右の銘としている「何苦楚魂」という言葉は、師と仰ぐ中西太から教えられたものだそうで、何事も苦しむことが礎となり、何があっても新しい日はやってくるという意味の「何苦楚日々新也」が語源だそうです。

まさに多くの苦難を自らの礎にして、常に次のステップへと進んでいく岩村にぴったりな言葉だなと思います。

 

名言からの学び

・信頼が勝利の原動力となる。

・人生の積み重ねが次の道につながる。

・苦しみも新しい日の礎となる。

 

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