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藤田平の凄さが分かる名言・語録集!天才ヒットメーカーの伝説エピソードから指導論まで

現在あるプロ球団で読売ジャイアンツに次ぐ2番目に古い歴史を持つ阪神タイガース。長い歴史の中、在籍した選手で200勝以上した選手は4人いますが、タイガース一筋は村山実ひとりだけ。2000本安打以上した選手は5人いますが、タイガース一筋はやはりひとり。それが藤田平です。

三振が少なく、二塁打の多い中距離ヒッターとして活躍した藤田平。しかし入団時にはタイガースと明治大学との間に確執が生じ、入団後は「阪神三奇人」のひとりと呼ばれ、選手生活は好不調の波が大きく、ケガからのカムバック賞など山あり谷ありでした。監督時代にも新庄剛志の引退発現事件が起き、ファンによる新幹線乱入に巻き込まれ、解任の際には球団事務所に籠城するなど、名前通り「平」にはいかない野球人生でした。

紆余曲折ある中、2000以上の安打と200以上の本塁打を放ち、歴史と伝統を持ちながらもなかなか勝てない時代のタイガースを支えたレジェンドである藤田。ある意味でもっともタイガースらしい選手だとも言えます。

今回はタイガースの天才ヒットメーカー藤田平の凄さが分かる名言や語録を紐解き、その伝説エピソードから指導論にまで迫ります。

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藤田平について

まずは藤田平の経歴を追ってみます。

1947年10月19日生まれ、和歌山県和歌山市出身。市立和歌山高校に進学すると2年字と3年次に2年連続で春の選抜大会で甲子園の土を踏み、3年次には準優勝します。藤田はその時、大会通算20塁打を記録しました。卒業後は明治大学に進学予定でしたが、第1回目となるドラフト会議で阪神タイガースが2位指名。藤田は入団を決めますが、明治大野球部の監督は熱血漢の島岡吉郎であり、礼を尽くさないタイガースとの間に遺恨が残り、それから長らく両者は関係を絶つことになりました。

ルーキーイヤーから1軍で使われ、2年目の1967年には「牛若丸」吉田義男の後釜として遊撃手のレギュラーを獲得し、リーグ最多安打を記録します。その後、チーム屈指の巧打者として3割近い打率を残し続け、1972年には28本塁打を放って、主軸として活躍するようになります。守備位置も一塁手に変わり、1974年は自身初となるシーズン3割の打率を残します。1979年に足を痛めてほとんど1年を棒に振りますが、1981年には打率.358で首位打者に輝き、カムバック賞を受賞しました。1983年には通算2000本安打を記録。翌1984年限りで現役を引退します。

プロ通算19年間で2064安打、207本塁打、85盗塁、通算打率.286。首位打者1回、ベストナイン7回、ダイヤモンドグラブ賞3回、カムバック賞1回。

引退後は解説や評論の他、タイガースの監督にも就任しますが、シーズン途中で解任。その後は独立リーグの監督なども務めました。

 

私が選ぶ、藤田平の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「昔はコーチが今のように手取り足取りで教えることなんてありませんでしたから、いろんな人の話を聞き、そこから自分で考え、自分でやってみるしかなかったのです」

無口でおとなしく、人付き合いが下手なこともあり、遠井吾郎、藤井栄治と共に「阪神三奇人」と呼ばれていた藤田。そんな藤田には良き先輩たちがいました。

山内一弘は藤田に「この世界で一番大事なことは、他のいい選手のところに聞きに行くことだ」と諭し、他にも野球のルールブックをしっかり読めとか、成功した人と付き合えとか、様々なアドバイスをしてくれたそうです。

村山実は「お前は左なのだから張本(張本勲)や近藤さん(近藤和彦)の話を聞け」と言って、オールスターゲームの際などにじっくり話が聞けるようセッティングしてくれました。

時代の空気として、この頃はどんな技術も「見て盗め」という時代です。そんな中でいろいろと世話を焼き、アドバイスしてくれる先輩たちは藤田の才能だけでなく、タイガースの未来に大きな期待を寄せていたのでしょう。その経験が監督としてチームに戻った際、歴史はあれど勝てないのに人気はある、ぬるま湯ムードの選手たちに喝を入れるため「鬼平」と呼ばれるほど厳しい指導方針をとったのです。

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【名言語録その2】

「ベンチと選手の呼吸が合っていないと、また失敗すると思う」

2022年セリーグのCSファーストステージ、阪神タイガース対横浜DeNAベイスターズの第3戦、6回に阪神ベンチは近本光司と大山悠輔にバントを命じました。この試合は結果としてタイガースが勝ち、ファイナルへと駒を進めましたが、藤田はこの試合での2人のバントについて「これがこのチームの野球だったのかと疑問に思う」と語り、上記の言葉を続けました。

藤田は監督時代、「鬼平」と呼ばれるほど厳しい指導を行いました。実力の伴わない人気から生ぬるい雰囲気になっていたチームを改革する意図によるものでしたが、元来コミュニケーション下手で天才肌の藤田は、むしろ選手と確執を生んでしまいました。野球は藤田のような職人芸の時代からエンタメへと変わりつつある時代でもあり、彼の指導方法は受け入れられませんでした。

監督を支えるべきフロント陣も無力でした。1996年6月、最下位に沈むチームに怒ったファンが、藤田が乗る新幹線に乱入しました。藤田は冷静に他に迷惑をかけないよう個室車両を用意し、そこで行き過ぎた行動を取るファンにじっくりと状況説明ともう少し見守って欲しい旨を伝えました。この一件を聞いた中日ドラゴンズ監督の星野仙一は「球団の人間は一緒にいて何をしてるんだ」とフロント陣の対応に憤ったそうです。

まさに「呼吸が合っていない」チームは、うまくいかないものです。

 

【名言語録その3】

「私の野球人生を賭けます」

タイガース一筋の藤田は就任の際に野球人生を賭ける意気込みを見せています。その前年から監督代行としてチームを見ていたし、二軍監督として若手の状況も理解している自負もあったでしょう。また球団オーナーとは何度も会っており、次年度以降も指揮権を任されると確信していたようです。

しかしフロントは開幕から最下位を続け、主力選手や外国人選手との衝突もあり、一度だけ5位に上がったチーム状況を受け、藤田の解任を決めます。

1996年9月12日、球団事務所に呼ばれ、それを聞いた藤田はまるで事務所に籠城するかのように、9時間にわたる応酬を続けましたが、最後は解任を受け入れました。タイガース得意の御家騒動と言えますが、バブルも終わり、PCも一般に普及しはじめ、ちょうど時代は熱血から、効率的で合理的な時代に変化する頃でした。

時代の変わり目は、評価の変わり目でもあるということなのでしょう。

 

名言からの学び

・見て盗むことも勉強のひとつである

・関わる者たちの呼吸を合わせることが大きな力になる

・時代の変わり目は、評価の変わり目でもある

 

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