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土井正三の凄さが分かる名言・語録集!イチローとの関係や伝説エピソードから指導方法まで


プロ野球史に残るV9を果たした読売ジャイアンツ。主軸はご存じ長嶋茂雄と王貞治で、オーダーには柴田勲、高田繁、森昌彦(森祇晶)ら名選手の名前が並んでいますが、この輝かしい9年間のシーズンすべてで100試合出場している選手は、長嶋と王の他にひとりしかいません。それが土井正三です。

V1の年にルーキーとして入団して以来、小技のうまいバイプレーヤーとしてV9に貢献した土井。引退後もコーチとして多くの選手を育てましたが、オリックスブルーウェーブ(現オリックスバファローズ)の監督時代にイチローの振り子打法に苦言を呈し、後の大選手を見いだせなかったとして高評価は得られていませんが、V9戦士として、あるいはコーチとして、野球界に多大な貢献をしています。

イチローとの関係もドラフトで5位予定を4位に上げて獲得を熱望したのは土井ですし、イチローも土井の起用法に理解を示し、感謝の言葉も述べており、土井が闘病生活をおくっている時には、わざわざアメリカからメッセージや花束を贈るなどしています。

今回はV9戦士土井正三の凄さが分かる名言や語録を紐解き、イチローとの関係や伝説エピソードから指導方法にまで迫ります。

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土井正三について

まずは土井正三の経歴を追ってみます。

1942年6月28日生まれ、兵庫県神戸市出身。育英高校では3年の春の選抜大会で甲子園に出場。卒業後は立教大学へ進学。巧打堅守の内野手として活躍します。1964年に読売ジャイアンツと契約し入団。

ルーキーイヤーから遊撃手の広岡達朗の控えや二塁手として活躍。105試合に出場してV1に貢献します。翌1966年からレギュラー二塁手に定着。2番打者として、続く王、長嶋の「ON砲」につなぐバイプレーヤーとしてチームを支えます。現役14年間で5度もリーグ最多の犠打を記録し、1968年と1969年には2年連続ベストナインに輝き、1978年にはダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)を受賞しました。

1965年から1973年までのジャイアンツV9時代のすべてに主力選手として貢献し、1975年に通算1000安打を記録。1978年には年間107安打を放ち、打率も.285を残しながらも現役を引退。

プロ通算14年間で1275安打、65本塁打、135盗塁、打率.263。ベストナイン2回、ダイヤモンドグラブ賞1回。

引退後はジャイアンツのコーチや解説者を務め、1991年からオリックスブルーウェーブの監督に就任。3年間で195勝をあげ、3年連続3位。

2009年9月25日、67歳で永眠されました。

 

私が選ぶ、土井正三の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「打たなくていいと思ったら気が楽になって、また打てるでしょう。眉にしわを寄せる必要はないでしょう」

毒舌で知られた土井ですが、それは王や長嶋にも遠慮なく向けられました。王には上記の言葉の他にも「二塁手が俺だったら王シフトをきちんとやっているから5の0だったなあ」と茶化したり、スランプになると下を向きがちな王が、一塁を守りながらずっと地面をならしていると「ピッチャー放るやないか」と注意をしたりしたそうです。

長嶋は打撃が良くないと、守備の際にもしきりにスイングチェックをしていて、投球も上の空になることがあるため、土井は「サード、何やってるんだ」と本気で怒ったそうです。王も長嶋も土井の先輩であり、年上ですが、王は「金持ちケンカせずだ。何でも言ってくれ」とそれを受け入れていました。

土井には厳しさだけでなく、茶目っ気もありました。ジャイアンツのコーチ時代に長嶋の息子である一茂がバントミスを繰り返したことから、バント練習を命じたところ、一茂が「バント練習なんてどういうつもりだ。何様だと思っているんだ」と逆切れしました。土井は「何様と言われても殿様ではないし」と苦笑いしたそうです。

土井の硬骨ぶりと長嶋ジュニアに振り回される姿のギャップが何とも言えません。

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【名言語録その2】

「主役、脇役で単純に割り切れないのがV9の素晴らしさだと思います」

プロ野球史上に残る強いチームといえば、V9ジャイアンツや黄金時代の西武ライオンズ、平成から令和の福岡ソフトバンクホークスなどがあげられますが、いずれのチームにも共通しているのはそれぞれの選手たちの「主役、脇役で単純に割り切れない」活躍によるものだと思います。

たとえば1969年日本シリーズ第4戦での土井の活躍はそのひとつです。阪急ブレーブス(現オリックスバファローズ)との対戦で、4回裏に1塁走者が挟まれたところで3塁走者の土井が本塁に突入。タイミングはアウトに見えたものの、岡田攻主審はセーフの判定をし、阪急の岡村浩二捕手が岡田主審を殴り、退場になりました。疑惑が残る判定でしたが翌日の新聞には、土井の足が岡村のブロックを巧みにかわして本塁を踏んでいる写真が掲載され、土井のファインプレーとして称賛されました。

また1972年、同じく阪急との日本シリーズ第4戦9回裏のシーンで、ジャイアンツが3対1とリードしている場面、阪急がノーアウト1、2塁のチャンスを作りました。ジャイアンツベンチはバントか強攻か迷っていると、土井と黒江透修が強攻策だと進言し、予想は的中。見事にダブルプレーに打ち取りました。

普段は脇役も、時に主役になり、時に演出家になる。土井の数々のエピソードは、まさによく野球を知っている選手だったことを教えてくれます。

 

【名言語録その3】

「僕はイチローを長い目で見ようと思っていました。そのためには1年間、ファームで放牧が必要だった。いっぱい食べさせて、練習させて、早く青年の体にしてやろうと」

監督としてイチローの才能を見抜けなかった、との評価がされることがある土井。振り子打法を否定し、イチローとの仲も良くないと噂されましたが、当のイチローは「そうじゃないのにのにね」と明確に否定しています。

まだ体が十分出来ていなかったイチローですが、抜群のセンスでそこそこの結果を残せるものの、それではケガをしたり、平凡な選手で終わってしまう可能性を考え、代走でサイン無視をした上に牽制でアウトになった試合をきっかけに、土井はイチローを2軍に落としました。

その頭にはジャイアンツ時代に、川上哲治監督がルーキーの高田繁が凡ミスを犯した後に、2軍降格を通告した経験があったそうです。土井が川上になぜ高田を2軍に落としたのか尋ねたところ「獅子はわが子を千尋の谷に突き落とす。あれと一緒じゃ。高田は間違いなく、将来、ウチを背負って立つ選手になる。もしあそこで何も罰を与えなかったら野球をナメてしまう。だからあえて厳しくしたんだ」と話したそうです。土井のイチローに対する思いも、同じものがありました。

 

「僕自身、反省もあります。僕たちの時代は監督命令は絶対で、選手に説明する義務なんてなかった。でも今の若い子には、きっちり説明すべき点は説明してからでなければならない」

イチローの処遇について、真意が伝わりにくかったかもしれないと反省した土井は、再びジャイアンツのコーチに就任した際、選手を2軍に落とす時は2軍コーチにしっかりと丁寧に指示を出したそうです。その丁寧な指導で仁志敏久らを育て上げた手腕は、もっと評価されるべきでしょう。

 

名言からの学び

・忠言は耳に逆らへども行いに利あり。

・よい役者はどんな役もこなせる。

・一事が万事とは限らない。

 

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