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西本聖の凄さが分かる名言・語録集!江川と共に巨人の一時代を築いた天才投手の伝説エピソードから努力論まで

昭和の時代、ライバルとは性格も哲学も正反対で、むきだしの感情がぶつかり合うものでした。それはエリートVSたたき上げというような構図です。プロ野球ならばドラフト1位とドラフト外(今ならば育成選手)という対極から、互いに激しくエースの座を競い合う形でしょう。1980年代のジャイアンツならば、それはまさに江川卓と西本聖に当てはまります。

「昭和の怪物」として高校時代から注目され、球界を揺るがす大騒動の末にジャイアンツの次期エースとして迎えられた江川に対し、西本は無名の高校生としてドラフト外で入団し、地道な努力の積み重ねで、敗戦処理から江川のライバルにまで駆け上がりました。

二人のライバル関係は江川が引退するまで続きますが、二人のエースが見せたプライドのぶつかり合いは、まさに昭和野球史を彩るひとつのページでした。特に西本の気迫溢れるシュートボールは戦場を駆ける侍のような印象がありました。

今回は80年代ジャイアンツの両輪として、江川と共に巨人の一時代を築いた天才投手西本聖の凄さが分かる名言や語録を紐解き、その伝説エピソードから努力論にまで迫ります。

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西本聖について

まずは西本聖の経歴を追ってみます。

1956年6月27日生まれ、愛媛県松山市出身。興居島で育ち、兄は甲子園で活躍して、広島東洋カープに入団した西本明和です。松山商業高校に入学しますが、藤田学がいる南宇和島高校などもあり、甲子園出場は叶いませんでした。

高校を卒業後、1974年にドラフト外で読売ジャイアンツに入団。ドラフト外ながらも地道な鍛錬と闘争心で、1976年には1軍初登板を果たし、翌年には1軍に定着して8勝をあげます。1979年には運命のライバルともいえる江川が入団。西本は持前の負けん気で初めての規定投球回に到達します。

1980年からは江川とエースの座を競うように6年連続で二桁勝利をあげ、5年連続で200イニング以上投げ続けます。特に1981年は投手タイトルは無冠ながら、最多勝など4冠に輝き、MVPも獲得した江川を制して沢村賞を獲得しています。その選考は入団の経緯から悪印象が残る江川をあえて避けたと世論に批判され、選考委員が辞任する騒ぎとなりました。

江川とのライバル関係は江川の電撃的な引退により、1987年に終わります。そして西本も1988年オフに中日ドラゴンズへトレードとなりましたが、西本は持前の反骨心を見せつけ、1989年は20勝をあげて最多勝利に輝きます。

しかし1991年に椎間板ヘルニアの手術を受けて以降、成績は低迷し、1992年オフに自由契約となり、オリックスブルーウェーブ(現オリックスバファローズ)に移籍。1シーズンで自由契約となり、1994年再びジャイアンツに復帰しましたが1軍登板はないまま引退しました。

日本プロ野球通算20年間で、165勝、17セーブ、防御率3.20。沢村賞1回、最多勝利1回。ゴールデングラブ賞8回は投手では日本最多タイ記録です。

引退後は解説者、千葉ロッテマリーンズやオリックスバファローズ、韓国のチームのコーチを歴任しています。

 

私が選ぶ、西本聖の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「結論から言えば、私はジャイアンツのエースではありませんでした」

この発言の後、西本がジャイアンツのエースとして名前をあげたのは、ライバル江川卓の名前です。

「私がエースだと思ったことは一度もありません。84年には唯一江川さんと15勝で並びましたが、勝ち星で並ぶことはできても、一度も上回ることはできなかった」

防御率などでは江川を上回る年もあった西本。しかし常勝を求められるジャイアンツにおいて、好投よりも勝ちに直結する結果が重視されてもおかしくはありません。

二人のライバル関係は、よく「エリートVSたたき上げ」に喩えられます。江川は高校時代から怪物と呼ばれ、3度もドラフト1位になりました。一方の西本はドラフト外。1979年オフのいわゆる「地獄の伊東キャンプ」では西本と江川が並んで競うように投げ合い、2時間300球以上の投球をし、捕手に「もう終わりにしてくれ」と怒鳴られるまで、共に譲りませんでした。

「両雄並び立たず」と言いますが、二人は世間が思うような不仲ではありませんでした。定岡正二によれば「僕と西本は卓ちゃんと呼んでいたほどで、不仲ではなかった」そうです。それだけに西本自身の「ジャイアンツのエースではありませんでした」という言葉には重みがあります。

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【名言語録その2】

「チームにエースはひとりしか存在しない。チームで一番勝てる投手、大事な試合で力を発揮できる投手が監督から指名を受け、エースを名乗ることができる」

1983年のジャイアンツと西武ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)との日本シリーズは、プロ野球史に残る名勝負として語り継がれています。その時のジャイアンツ投手陣の柱は西本と江川でした。

第1戦の先発マウンドに上ったのは江川でした。シリーズ直前に右足の肉離れを起こしていたという江川は6失点して敗戦投手となります。第2戦は西本が先発し、得意のシュートで内野ゴロの山を築き、見事に完封勝利をおさめました。江川は第4戦でも肉離れの影響で6回で降板。一方、西本は第5戦も好投し、日本シリーズ29イニング連続無失点の記録を作り、チームを勝利に導きます。

ジャイアンツの3勝2敗で迎えた第6戦、ジャイアンツが9回に逆転し、裏を抑えれば日本一という状況で、西本がマウンドに上ります。しかし西本は第7戦での先発を告げられていたため、準備をまったくしていませんでした。

いきなりコーチにブルペンへ行けと言われて準備をはじめた西本。その時、ブルペンでは江川が投げていました。逆転して藤田元司監督が指名したのは西本でした。準備不足の西本が打たれて同点となり、延長10回に江川が登板しますが、江川の脳裏にはまだ9回のことが残っていました。「ベンチは僕じゃなく、西本を選んだんです。本当に悔しくて、心が一気に冷えてしまいました」

結果、江川は打たれて敗戦。第7戦は3戦連投となる西本が登板。7回に自らのミス(記録はヒット)もあり、ジャイアンツはシリーズを落としました。

日本シリーズではエースが第1戦、第4戦、第7戦に登板するパターンが多く、この時のジャイアンツは第1戦に登板した江川がエース格だった筈です。しかし優勝が決まる土壇場で指名されたのは西本でした。ところが西本は第6戦も第7戦も落としてしまいます。

西本がてる」投手こそエースだというのには、この経験があったからかもしれません。

 

【名言語録その3】

「僕は江川さんに勝つということが、自分の中で一番燃えられるものなんですよね」

強烈なライバル心を、猛烈な努力に変えて、自らの力にしていた西本。自分よりも先に江川が引退を決めた時は「ふざけるなと、なんで引退するんだと、俺の気持ちはどうしてくれるんだと、目標はどうしてくれるんだと、いう気持ちでね。がっかりしました」と語っています。

後にふたりで対談した時に西本は江川に「俺をどう思っていた?」と尋ねました。すると江川は「本当のライバルだったよ。ニシがいなかったら、俺はとうの昔に手抜きしてたさ」と彼流のユーモア混じりに返しています。

1995年1月21日、有志による西本の引退試合が多摩川グラウンドで行われました。始球式には長嶋茂雄が駆けつけ、最終回には自ら打席にまで立ちました。

「打ってもらったほうがいい、当ててほしいと思って投げたのは初めてだった」

西本の良さを引き出した長嶋が幕引きをする。華やかではありませんでしたが、この引退試合はまさに反骨と根性の人である西本に相応しいものだったと思います。

 

名言からの学び

・数字は重要な結果である

・勝てる者が強い

・ライバル心は努力の原動力になる

 

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