藤村富美男の凄さが分かる名言・語録集!ミスタータイガースの伝説エピソードから人生哲学まで
数多くの野球マンガを執筆している水島新司さんですが、その中のひとつ『あぶさん』では主人公の景浦安武が「物干し竿」と呼ばれる長尺のバットで活躍する姿が描かれています。景浦の名前の由来は戦前に大阪タイガース(現阪神タイガース)で主軸だった景浦将からとっていますが、景浦は「零台ミスタータイガース」とも呼ばれています。そして「物干し竿」の由来は「初代ミスタータイガース」である藤村富美男が使っていたバットです。
藤村は日本プロ野球初の本塁打王であり、初のサイクルヒットを放ち、戦後初の本塁打、「物干し竿」で初の40本以上の本塁打など、数々の伝説を残した大打者です。選手としてもっとも充実していたであろう時期に召集され、兵役について激戦をくぐり抜け、乗っていた輸送船が撃沈されたりと、いくつもの苦難を乗り越え、戦前戦後共に名選手として活躍しました。
特に戦前にはそれほど多くなかった本塁打を、プロ野球の大きな魅力に引き上げた功績は、藤村にあると言っても過言ではありません。野球殿堂入りも果たし、その背番号10番はタイガースの永久欠番となっています。
今回は初代ミスタータイガースである藤村富美男の凄さが分かる名言や語録を紐解き、伝説エピソードから人生哲学にまで迫ります。
藤村富美男について
まずは藤村富美男の経歴を追ってみます。
1916年8月14日生まれ、広島県呉市出身。旧制大正中学校(後に呉港中学校に改称)ではエースとして6度も甲子園大会に出場し、沢村賞にその名を残す沢村栄治、打撃の神様川上哲治らと名勝負を繰り広げ、全国優勝も果たします。
1936年、設立されたばかりの職業野球チーム大阪タイガース(現阪神タイガース)に入団。藤村自身は法政大学への進学を考えていたものの、父親らの強引な勧めで、当時はまだ地位の確立していないプロの道へと進むことになったそうです。
入団当初は投手兼内野手として、投打に活躍します。しかし1939年より召集されて兵役につきます。マレー半島での激戦や、乗っていた輸送船が雷撃で沈められるなど死線をくぐり抜け、終戦を迎えますが、チームメートの景浦将やライバルだった沢村栄治らは戦死。藤村は生き残って戦後初のプロ野球公式戦となる東西対抗戦に出場し、戦後初の本塁打(ランニングホームラン)を放ちました。
1946年にリーグ戦が再開され、タイガースの選手兼任監督として、チームを指揮し、時に投手として、時に内野手として大車輪の活躍を見せます。1947年には選手に専念。38インチ(約97センチ)という長さの「物干し竿」を豪快に振り抜く打撃で3年連続打点王を取り、日本プロ野球史上初のサイクル安打や40本塁打以上を記録します。
1950年の2リーグ分裂の際にもタイガースに残り、強打者として、あるいは投手としても活躍。1956年に再び兼任監督となり、同年限りで現役を引退しますが、最後の本塁打は代打逆転サヨナラ満塁本塁打でした。翌年から監督に専念しますが、連続2位ながら監督解任となりました。
現役通算17年で1694安打、224本塁打、盗塁103、打率.300、投手としても34勝、防御率2.35の記録を残しています。MVP1回、首位打者1回、本塁打王3回、打点王5回、ベストナイン6回。監督としては通算4年で266勝、すべてAクラスでした。
引退後は解説者の他、役者としても活躍しましたが、1992年5月28日惜しまれつつ永眠しました。
私が選ぶ、藤村富美男の凄さがわかる名言・語録集
【名言語録その1】
「わしらプロ野球選手は芝居の役者と同じ」
プロ野球の始まりと共に、それに加わった藤村ですが、当時は大学野球が花形であり、ゆえに藤村も法政大学への進学を望んでいました。当初プロ野球は人気が無く、ある種の見世物興行のようなものだったそうです。藤村の「物干し竿」や、川上哲治の「赤バット」、大下弘の「青バット」、南村侑広の「黒バット」などは、そもそも何とか注目してもらおうという意識があったから生まれたもののようです。
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戦後になり、川上などが20本を越える本塁打を放つようになり、皆が本塁打の魅力に気が付きはじめた頃、藤村は本塁打の時代到来を感じ、「物干し竿」で46本もの本塁打を放ちました。この年、タイガースの総本塁打数は141本なのでおよそ3分の1を藤村が打ちました。
1947年にタイガースの総本塁打数は17本であり、1948年は50本ですから、この時期、いかに急激に本塁打が増えたのかがわかります。ボールをはじめとした道具の変化や、戦争後の食料事情の回復など、いろいろ理由はありますが、本塁打がショーとして野球を面白くさせたのは間違いありません。
藤村はフルスイングで空振りをすると尻もちをついてみせたり、死球を受けると大きな声で痛がったりしてみせ、本塁打を放った後は客に帽子を振って、スキップしながらベースを回るなど、ショーマンとしても観客を楽しめせてくれました。
後に役者として人気ドラマで必殺シリーズの「新・必殺仕置人」に出演。虎という名で、中村主水(藤田まこと)ら仕置人の元締めとして「寅の会」を仕切る役を演じました。ドラマ中では「物干し竿」という名のこん棒で裏切り者を瞬殺するシーンもありました。
まさに見せることにこだわり、役者と同じだと言っただけのことはあります。
【名言語録その2】
「代打、ワシじゃ」
1956年6月24日の広島カープ戦で、選手兼任監督だった藤村は、9回満塁の場面で審判に自らの代打を告げます。結果は代打逆転サヨナラ満塁本塁打。藤村にとって現役最後の本塁打となりました。
1950年代までは珍しくはなかった選手兼任監督ですが、60~70年代には中西太、野村克也、村山実ら、数えるほどとなり、それ以降となると古田敦也と谷繫元信だけになります。そのため古田と谷繫の時には、いつ自らの代打を告げるのか話題になりましたが、その元ネタは藤村にありました。
自ら代打を告げ、劇的な本塁打を放った藤村ですが、戦後第1号の本塁打は1945年11月23日に明治神宮外苑野球場で行われた東西対抗戦で、藤村によるランニングホームランでした。打球を追った外野手が足をもつれさせて転んだ結果だそうですが、終戦からわずか3ヶ月後、そこに集まった33人の選手が、プロ野球を復活させ、藤村がそこに花を添えたと言えます。
戦後のプロ野球人気を決定づけたのは、ミスタープロ野球長嶋茂雄の登場です。長嶋のプロ入りによって、当時人気だった東京六大学野球のファンが、そのままプロ野球ファンに流れたと言われています。その長嶋は藤村に憧れを抱いて野球選手になったそうです。
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そうやって次世代へと受け継がれていくには、プレーだけでなく、藤村や長嶋のようなショーマンシップもまた必要だろうと思います。
さて次に自ら代打を告げる監督が現れるのはいつになるのでしょうか。そんなシーンがあるからこそ、野球は面白いと思います。
【名言語録その3】
「わしゃタイガースの藤村じゃ」
1949年のシーズンオフ、プロ野球界は2リーグ分裂に揺れました。それによりさまざまな選手が新生パリーグに引き抜かれて行きます。タイガースからも「七色の変化球」を操る若林忠志、「球界の紳士」別当薫などが移籍しますが、藤村は上記の言葉と共にタイガースに残留します。
藤村が初代ミスタータイガースと呼ばれたのは、その活躍だけでなく、チーム愛の強さもファンの心に響いたからでしょう。
1954年7月25日には藤村の退場処分をきっかけに、グラウンドにファンが大挙して乱入し、没収試合になったほど、タイガースファンに愛された藤村。
豪快な本塁打のイメージが強い藤村ですが、シーズン191安打で打率.362を記録するなど、長いバットをうまく使い、ヒットも量産しています。実は三振も少ない打者でした。もし戦争による5年間の空白がなければ、プロ野球初の2000本安打は藤村だったかもしれません。
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「ボールが止まって見えたとか、縫い目が見えたとか言われるが、あの時は、そういうものじゃなかった。レフトスタンドがすぐそこに見えた」
プロ野球初の2000本安打を記録した川上哲治の伝説と対照的で、本塁打を量産した藤村らしい表現です。あえて具体的な技術論ではなく、冗談のような言葉には、藤村のプロらしい対処が見られる気がします。
名言からの学び
・プロとはショーマンでもある。
・本物のプロの技は、次世代に受け継がれていくべきものである。
・ファンに愛されることもプロの仕事である。
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