つれづれベースボール。

野球にまつわる話題を楽しく気ままにお届けします

名言

ウイリー・メイズの凄さが分かる名言・語録集!NLB史上最高コンプリート・プレーヤーの伝説エピソードから努力論まで

メジャーリーグには「ファイブ・ツール・プレイヤー」という表現があります。ミート力があって打率を稼げ、パワーがあってホームランを叩き込み、走力があって盗塁ができ、広い守備範囲でキャッチングも巧みで、強い肩でランナーを制する。まさに野球の全てに秀でたプレーヤーと言えます。そして史上最高のファイブ・ツール・プレイヤーと呼ばれているのがウイリー・メイズです。

メジャーリーグの歴史において500二塁打+100三塁打+500本塁打+300盗塁を達成しているのはメイズだけです。しかもゴールドグラブ賞を12度も受賞した守備の名手でもあり、まさに走攻守すべてがそろったNLB史上最高コンプリート・プレーヤーと言えるでしょう。

アメリカの野球情報サイト「ジ・アスレティック」は2019年から始めた「偉大な野球人100選」で、メジャーリーグの象徴ともいえるベーブ・ルースを抑えて、二グロリーグ出身の黒人選手であるメイズを史上1位に選出しました。それは野球がホームランだけではない走攻守に楽しめるスポーツであることを、また差別を否定する世界であることを、宣言しているかのようです。

今回は最高のファイブ・ツール・プレイヤーであるウイリー・メイズの凄さが分かる名言や語録を紐解き、NLB史上最高コンプリート・プレーヤーの伝説エピソードから努力論にまで迫ります。

スポンサーリンク

 

ウイリー・メイズについて

まずはウイリー・メイズの経歴を追ってみます。

本名ウイリー・ハワード・メイズ・ジュニア。1931年5月6日生まれ、アメリカ合衆国アラバマ州ウェストフィールド出身。父親は地元の製鉄所の野球チームに所属し、母親は高校でバスケットボールの優れた選手でした。メイズは幼いころから父親と野球に親しみ、フェアフィールド工業高校ではバスケットボールやアメリカンフットボールでも活躍しました。

1948年に二グロリーグのマイナーチームであるチャタヌガー・チューチューズでプレーし、その年の後半から二グロアメリカンリーグのバーミンガム・ブラックバロンズでプレーしました。
そんなメイズにボストン・ブレーブス(現アトランタ・ブレーブス)、ブルックリン・ドジャース(現ロサンゼルス・ドジャース)が目をつけましたが、彼は1950年にニューヨーク・ジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)と契約します。

1951年はシーズン当初トリプルAのミネアポリス・ミラーズで好成績を残し、5月にはメジャーデビューします。いきなり12打席連続で凡退しますが、13打席目に初安打を放つとシーズン20本塁打を記録し、新人王に輝きます。

しかし1952年、朝鮮戦争に召集され、陸軍に入隊。戦場には出ず、翌年戦争が終結し、1954年に球界復帰します。そこからのメイズはファイブ・ツール・プレイヤーとしての能力を大きく開花させます。復帰した年に首位打者とMVPに輝く大活躍を見せ、チームをワールドシリーズに導き、第1戦では「ザ・キャッチ」と語り継がれている大ファインプレーを見せて、ワールドシリーズ優勝に勢いをもたらしました。

1955年には当時のメジャーリーグ最年少記録となるシーズン50本塁打を記録。1956、57年は2年連続で30本塁打30盗塁以上を達成。1957年、チームがサンフランシスコに移っても打ち続け、1965年には通算500本塁打に到達。1969年、ベーブ・ルース以来2人目となる通算600本塁打を記録、翌1970年に史上10人目となる通算3000安打を達成しました。1972年、ニューヨーク・メッツに移籍。1973年に引退しました。

メジャーリーグ通算22年間で、3283安打、660本塁打、338盗塁、通算打率.302。MVP2回、首位打者1回、本塁打王4回、盗塁王4回、新人王、ゴールドグラブ賞12回。外野手の刺殺数7095回は史上1位。

引退後は1979年に野球殿堂入りし、2015年には大統領自由勲章を授与されました。彼の背番号24はサンフランシスコ・ジャイアンツとニューヨーク・メッツで永久欠番になっています。

スポンサーリンク

 

私が選ぶ、ウイリー・メイズの凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「俺だと思うよ」

この言葉には前段があり、新聞記者に「あなたが見た最高の選手は?」と問われた際の答えです。謙虚で誠実な性格で知られたメイズだけに、ただのビッグマウスによるものではありません。茶目っ気とそれだけの実績を背景にした言葉です。球聖タイ・カッブが「私が唯一お金を払って見たい選手」と名指ししたメイズの伝説的なプレーが「ザ・キャッチ」と呼ばれた美技です。

それは1954年のワールドシリーズ、ジャイアンツVSクリーブランド・インディアンス(現クリーブランド・ガーディアンズ)の第1戦。同点で迎えた8回、インディアンスはノーアウト1、2塁のチャンスで、打者ビック・ワーツの打球はセンターへの大飛球となります。追うメイズは背走したまま頭上を越えてきたボールを見事にキャッチ。このファインプレーで勢いにのったジャイアンツはこの試合に勝ち、ワールドシリーズも制します。

この「ザ・キャッチ」の凄さは、まず試合が行われたジャイアンツの本拠地ポロ・スタジアムが、その名の通り、ポロ競技用に作られたグラウンドのため、中堅フェンスまでの距離が147メートルもありました。現在、日本のフランチャイズ球場の中堅はおよ122メートル、メジャーリーグは125メートル前後です。それと比べて20メートル以上広いというのは、いかにこの球場でのセンター守備が難しいのかを物語っています。フランチャイズプレーヤーだとはいえ、これだけ長い距離を全速力で走りながら、背中越しの捕球はそう簡単なものではありません。しかもメイズはこの大飛球に対して、あえて打球が見やすいように角度をつけて曲がるように走り、落下点に到達しています。おそらく彼は追いつくことを確信していたのでしょう。

もし記者の問いが「最高の打者」であれば、答えは多少違っていたかもしれません。しかし「最高の選手」ということは打てるだけではなく、走れて守れなければ最高の野球選手とはいえないでしょう。となれば自身を推すことはむしろ当然なことだったのかもしれません。

スポンサーリンク

 

【名言語録その2】

「優れた成績を残すには、自分が選んだ競技に専念する必要がある。また懸命に努めて、建設的な批判を受け入れなければならない」

メイズは子どもの頃、バスケットボールやアメリカンフットボールでも優れたセンスを見せていました。しかし野球に専念すると早くに才能を開花させ、高校生の段階でプロとして二グロリーグの試合に出ていました。高校の校長はそれを咎め、処罰も検討されましたが、父親は校長を説得し、地元で行われるホームゲームのみ出場を認められました。その時点でメジャーリーグのチームも何チームか興味を持つほどの逸材でした。

そのメイズもメジャーデビューは、12打席無安打のスタートでした。メイズはレオ・ドローチャー監督にマイナーに落としてくれと言ったそうですが、ドローチャーは「君が打てなくとも勝っている。今シーズン、ヒットを1本も打てなくとも、センターは君のポジションだ」と答えました。

「自分が熱中すれば、チームメイトにも熱く伝わる。すると皆が頑張ろうという気になって、大勢の応援につながるんだ。うんと熱中することさ」

そんなメイズの姿勢をドローチャーは評価していたのかもしれません。結果として彼は新人王を獲得する活躍を見せました。

メイズが活躍した時代は黒人の公民権運動も激しかった時代ですが、彼は政治的な発言を控えていました。それについて同じ黒人から批判されることもありました。しかしメイズは「私は野球選手であり、政治家でも作家でも歴史家でもない」と沈黙を守りました。彼は野球選手として最善を尽くすことが、即ち自分が人々のためにできることだと考えていました。まさに「自分が選んだ競技に専念する」ことで、彼は選手としてだけでなく多くの感動を与えた人物として、政治家や作家や歴史家に勝るとも劣らない業績を残したのです。

【名言語録その3】

「Say Hey!」

メイズのニックネームとして知られているのが「Say Hey KID」です。そのため彼のドキュメンタリー映画のタイトルも「Say Hey,ウイリー・メイズ!」でした。

万能選手のメイズですが、苦手としていたのが人の名前を覚えること。そのため誰にでも「Say Hey!」と呼びかけていたため、この愛称がついたそうです。

ノムさんこと野村克也のニックネームのひとつに「ムース」というのがありましたが、この名づけ親はメイズです。1960年に日米野球で対戦した時、野村がのそっとしているのに周囲をよく観察し、敏感に反応するプレーを見て、北米にいるヘラジカ「ムース」と呼んだそうです。メイズこそよく見ているなと感じるエピソードです。

「世界で一番バカなことは、才能がありながら他人の真似をすることさ」

どれだけ才能があっても初めは真似から入るはずです。でも凡人はモノマネのまま終わります。「建設的な批判を受け入れ」、モノマネで終わらない努力が才能を開花させるのです。

もうひとつメイズに関する面白いエピソードがあります。作家のポール・オースターは子どもの頃、ジャイアンツのファンで、もっとも好きだったメイズに出会い、サインを求めたところ、メイズは快く引き受けてくれました。しかしオースターはその時、ペンを持っておらず、結局サインをもらえませんでした。以来、オースターはどこに行く時もペンを持ち歩くようになり、いつの間にか作家になっていました。ひとりの作家を生み出したこと。これもまたメイズの業績と言えるかもしれません。

更に多くの野球ファンが妄想することがあります。もしメイズが朝鮮戦争に召集されていなければ、ベーブ・ルースのホームラン記録を破るのはハンク・アーロンではなく、メイズだったかもしれないということです。人生に「if」はありませんが、それを想像させてしまうのが偉大な人物の宿命みたいなものかもしれません。

 

名言からの学び

・奇跡は偶然起こらない

・言葉に勝る行動がある

・才能が才能を呼び込む

 

関連記事

アレックス・ロドリゲスの凄さが分かる名言・語録集!天才ホームランバッターの伝説エピソードから努力論まで

ポール・ゴールドシュミットの凄さが分かる名言・語録集!天才メジャーリーガーの伝説エピソードから努力論まで

ムーキー・ベッツの凄さが分かる名言・語録集!メジャーMVPの伝説エピソードから努力論まで

ハンク・アーロンの凄さが分かる名言・語録集!天才スラッガーの伝説エピソードから努力論まで

タイ・カッブの凄さが分かる名言・語録集!球聖と呼ばれた大リーグ史上最高選手の伝説エピソードから努力論まで

スポンサーリンク

-名言

こんな記事も読まれています