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上田利治監督の凄さが分かる名言・語録集!球界レジェンドの伝説エピソードから指導方法まで


日本プロ野球にビデオ判定が導入されたのが2010年。その後、2018年からはリクエスト制度が出来たことで、誤審の数は減りました。また2012年以降は審判への抗議が5分以上続いた場合、退場処分になると決められたこともあり、1978年の日本シリーズで起きた1時間19分という抗議による中断も、現在ならば起きない事件です。その抗議を行ったのが上田利治です。

戦後の日本プロ野球で3年連続日本一以上に輝いたチームは、過去、読売ジャイアンツ、西鉄ライオンズ、西武ライオンズ、そして上田が率いた阪急ブレーブス(現オリックスバファローズ)の4チームしかありません。

3連覇当時のブレーブスには、盗塁の世界記録保持者の福本豊、3度の本塁打王と打点王に輝いた長池徳士、2度の首位打者と3度の打点王を獲得した加藤秀司、通算284勝の史上最高のアンダースロー山田久志、代打本塁打世界一の高井保弘の他、大橋穣、蓑田浩二、島谷金二、マルカーノ、足立光宏、山口高志ら、個性的な猛者が勢ぞろいしていました。上田は熱血漢ぶりで彼らを率い、野球史に強烈な印象を残しました

今回は「名選手、名監督にあらず」という格言通り、現役生活はわずか3年ながら、監督として歴代7位の通算1323勝をあげた名将上田利治監督の凄さが分かる名言や語録を紐解き、球界レジェンドの伝説エピソードから指導方法にまで迫ります。

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上田利治のプロフィール詳細

まずは上田利治の経歴を追ってみます。

1937年1月18日生まれ、徳島県海部郡出身。海南高校を卒業後、関西大学に一般入試で進学。野球部に入部すると村山実とバッテリーを組み、全日本大学野球選手権で優勝するなど活躍。現役の後に東洋工業(現マツダ株式会社)への就職可能なことを条件に、広島カープに入団。当時の松田恒次オーナーは最初から選手としてよりも「幹部候補生」として期待し、「指導者としていい選手を育てて欲しい」と上田に声をかけたそうです。

現役選手としては、1959年から1961年までのわずか3年間のみで引退。通算122試合で56安打、2本塁打、打率.218でした。翌1962年プロ野球史上最年少の25歳で二軍コーチに就任。1963年に一軍コーチになります。1969年に退団し、1970年には大学時代の盟友村山実から阪神タイガースのコーチ依頼があったものの、なぜか実現せず、1971年からは阪急ブレーブスのコーチになります。

1974年西本幸雄の後任として37歳で監督就任。1975年から77年まで日本一3連覇に輝きます。78年もリーグ優勝し、ヤクルトスワローズとの日本シリーズ第7戦、6回裏に大杉勝男の左翼ポール際の大飛球が本塁打と判定されますが、上田はファールだと猛抗議。試合放棄も示唆する1時間19分という中断劇に、コミッショナーまでが仲裁に入る時代になりますが、判定は覆らず、ブレーブスは破れ、上田は混乱の責任を取り、リーグ4連覇ながら辞任します。

1981年からブレーブスの監督に復帰しますが、西武ライオンズの黄金期とぶつかり、その後10年間で優勝は1度のみ。2位が5度という成績で1990年に退任。1995年には日本ハムファイターズの監督となりますが1999年に辞任。

監督通算20年で歴代7位の通算1323勝をあげた名将は、2017年7月1日、80歳で永眠しました。

 

私が選ぶ、上田利治の凄さがわかる名言・語録

【名言・語録その1】

「エエで、エエで」

上田といえば、選手に「エエで、エエで」と声をかけてその気にさせるという逸話が有名です。しかし本人によればそれは新聞記者が作ったのだといいます。関西弁で「エエで」は「もういい」という否定的な意味にもなるので、褒めるのには使わなかったとのこと。ただし、そのエピソードが有名になると意図的に利用もしたようです。

ファイターズ時代にコーチだった古屋英夫によると、開幕前の激励会で1軍登録された28選手全員の名前を、何も見ずにそらんじたという上田。監督の中には野村克也のように、あえて選手と距離を取る人もいますが、上田は選手に直接声をかけて距離を縮めていました

選手思いの熱血漢で、ファイターズの監督だった1996年8月のオリックスブルーウェーブ戦で、二塁ベース上で悠々フォースアウトにされたはずのニールが、遊撃手の田中幸雄に蹴るようなスライディングを食らわせました。怒った上田は審判や相手の仰木彬監督に対してはもちろん、たまたま観戦していたパリーグ会長にも「選手がケガをしたらどうする」「あれじゃあまるでアメフトじゃないか」と激しく抗議しました。

選手ファーストの熱い監督だったことが感じられます。

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【名言・語録その2】

「完璧なファールやったもんね。それがホームラン」

1978年のヤクルトスワローズとの日本シリーズ第7戦で、大杉の飛球を本塁打とされて、上田は伝説となる1時間19分の抗議をします。全選手をベンチに引き上げさせ、コミッショナーまでが登場し、「俺が頼むんだから」と説得すると「それがどうしたというんですか」と余計に反発し、審判を「代えてくれたらやる」と大暴れした上田。

真実は今もわかりませんが、ルールとしては審判が絶対であり、上田の行為はやりすぎだったかもしれません。後に打たれた足立光宏は「線審以外はすべての人がファウルと思った打球」と言い、相手投手の松岡弘も「名将が、それこそ監督生命をかけて抗議を行っている。その必死な姿を見ているうちに、どうぞ納得するまでおやりください、という気持ちになりましたね」と語っています。

抗議の最中、上田は退場を避けるため一切手を出しはしませんでしたが、実は足先で審判の足を踏みつけていたそうです。

 

「最初から踏んづけようと思ったわけやない。でも顔をくっつけている間に線審の足の上に、僕の足があったんだよ(笑)」

当時はリクエストもなく、執拗な抗議の結果、敗戦。4年連続リーグ制覇した監督が辞任するという結末になりました。ファンの中には罵声を浴びせる者もいたし、上田の次女はこのせいで学校で殴られたり、カッターで服を切られたりしたそうです。

しかし後に因縁の上田と大杉が、ふたりで当時の映像を確認したテレビ番組では、上田が「ビデオ見たら、違うでしょ?」と尋ねると、大杉は「私のビデオで見ると、これがフェアなんですな」と笑いにしています。暗にファウルだったと認めているようなものですが、当事者同士はいがみ合わないところが流石でした。

 

【名言・語録その3】

「人の人生、真っ直ぐに行くことはない。こっちの道も、あっちの道もある」

名将西本幸雄のもとでコーチとして学び、熱血で知られる上田ですが、その野球は緻密でした。福本豊は「野球というものを恒に研究されていた。投手の癖を見抜くなど情報を収集し、アイディアを出し、緻密な阪急の野球を作り上げた」と話しています。

大橋穣はスワローズのコーチになった際、監督だった野村克也に、上田がやっていた走者三塁でのセーフティスクイズについて「どういう条件でやるんだ」と聞かれたそうです。

そもそもブレーブスには「ドクター・ベースボール」と言われたダリル・スペンサーが残した緻密な野球の素地があり、上田もまたプレーを選手任せにせず、必要なサインはしっかり出し、責任の所在をあきらかにしました。

当時のブレーブスは走攻守のバランスがとれたチームで、3連覇の頃のブレーブスがプロ野球史上最強だという声もあります。確かにチームカラーは地味でしたが、玄人好みの個性的で魅力あふれるチームでした。そのブレーブスも1988年シーズン限りで、オリックス・ブルーウェーブに生まれ変わり、ある意味でブレーブスの象徴でもある上田は、チームと共に退任しました。

 

「ブレーブスは阪急のものでもオリックスのものでもありません。ファン一人ひとりと選手一人ひとりのブレーブスです。皆さんがおられる限り、ブレーブスは永遠に生き続けます」

その後ファイターズの監督も務めますが、家庭の事情で休養するなど、紆余曲折のある野球人生でしたが、まさに真っ直ぐいかない人生を、熱く突き進んだ名将だと思います。


知将 上田利治

 

名言からの学び

・上司は部下との効果的な距離感をはかる。

・プロはプロを知る。

・リーダーは常に責任の所在を明確にする。

 

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