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大島康徳の凄さが分かる名言・語録集!2000本安打を達成した強打者の伝説エピソードから努力論まで

あなたが思う「天才」とはどんな人でしょう?もしあなたが小学生の頃からプロ野球選手に憧れているとして、高校に入り、それまでまったく野球経験がない同級生が、あっという間にエースで4番打者となり、卒業と同時にドラフト3位でプロ入りし、プロでも本塁打王に輝いたとしたら、「天才」だと思うのではないでしょうか?そんな選手だったが大島康徳です。

中学ではバレーボールやテニスをプレーし、助っ人で相撲部の大会に出ていたところで、高校の野球部監督に見染められ、グローブとスパイクを贈られたことで野球を始めたという大島。わずか野球経験3年でプロ入りというのは驚きであり、その才能を見抜いた監督も見事な眼力です。

通算2204安打、382本塁打というプロ野球史に残る活躍を見せた大島ですが、なぜか全国的な知名度や評価はいまひとつで、野球殿堂入りもしていません。殿堂表彰の度に「なぜ選ばれなかったのか」と話題に登る名選手です。

今回はわずか経験3年でプロとなった大島康徳の凄さが分かる名言や語録を紐解き、2000本安打を達成した強打者の伝説エピソードから努力論にまで迫ります。

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大島康徳について

まずは大島康徳の経歴を追ってみます。

1950年10月16日生まれ、福岡県で生まれ、大分県中津市で育ちます。中学ではバレーボールで大分県選抜のレギュラーアタッカーとして活躍します。他にもテニスや助っ人として陸上部の砲丸投げや相撲部でも高い身体能力を見せていました。そして相撲部の助っ人として大会に出ている時に、中津工業高校野球部の小林昭正監督が大島に惚れこみ、グローブとスパイクを贈ったことがきっかけで同校に入学し、野球部に入ります。高校では甲子園出場はなりませんでしたが、中日ドラゴンズの入団テストに合格し、1968年のドラフト3位で入団します。

名将水原茂に打者としてのセンスを見出され、打者として二軍で鍛えられます。1971年に1軍昇格し、長打力を見せ、翌1972年には規定打席に達し、2桁本塁打を記録。1976年はシーズン代打本塁打7本の日本記録をマークし、1977年は3塁手のレギュラーとなり、打率は3割を越え、27本塁打とチームの中軸を担うようになります。

1979年には本塁打30本を越え、1983年、本塁打王に輝きます。1987年のオフに日本ハム・ファイターズ(現北海道日本ハム・ファイターズ)にトレードとなり、1988年に通算本塁打350本を達成。1990年には通算2000本安打に到達しました。その後は主に代打として活躍し、1994年に引退。

日本プロ野球通算26年間で、通算2204安打、382本塁打、88盗塁、打率.272。本塁打王1回、最多安打1回。シーズン最多代打本塁打7本は歴代1位、通算代打本塁打20本は歴代2位。

引退後は評論家、解説者を経て、日本ハム・ファイターズの監督を2000年から2002年まで3年間務め、通算181勝、勝率.446。最高順位は3位でした。2006年には第1回WBC日本代表の打撃コーチを務めて世界一に貢献。2021年、大腸がんのために死去。

 

私が選ぶ、大島康徳の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「運命の糸に逆らわずに乗っかったようなところがあります」

高校から野球を始め、わずか3年でプロになった大島。テストを受けてのドラフト3位指名でしたが「よくそんな僕を発掘してくれたな」と感謝はしていたものの、「うれしいといった気持ちはなかった」そうです。

大島自身としては大学進学が第一志望でした。それも強豪で二番手や三番手になるなら、強豪ではない大学で一番になって目立った方がいいと考えていたのだそうです。しかしスカウトとドラゴンズ二軍監督の本多逸郎からの助言でプロ入りを決めました。

その意味で「運命の糸に逆らわずに乗っかった」と言う大島。なので「入団が決まったあとも変な気負いやプレッシャーはなく、かなり楽な気持ちでプロの世界に飛び込んでいった」そうです。

大島本人曰く、「不器用なもので、愛想を振りまいたりできない。人見知りも激しいし、用事でもない限り、自分から電話もなかなかできない」し、「気が短いところもあるんで、若い頃は反発し、生意気を言ったこともたくさんあります」という性格。なのになぜか監督や先輩からはかわいがられたそうです。それは裏を返せば実直で、真面目であり、はね返す力があるということでもあります。高校の小林監督やドラゴンズの本多二軍監督はそこを正しく評価したのでしょう。

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【名言語録その2】

「よくここまで来たな!」

大島はドラゴンズ時代、レフトまたは一塁を守っていました。その頃のセンターは名手として知られる平野謙でした。2人が外野守備につき、左中間に打球が上がり、平野がこれはレフトだなと思っても、大島は打球ではなく、彼の方をじっと見ているのだそうです。平野が懸命に追いかけて何とかキャッチすると、大島は「よくここまで来たな!」と褒めたそうです。なんとも憎めない大島の人柄がわかります。

ファイターズでチームメイトだった五十嵐信一は、大島について「優しかった」と話しています。「小出しに」と言いながら、代打の心構えや投手の絞り球など、熱心に教えてもらったそうです。

また後のエース岩本勉は、大差の試合の終盤に、ベンチ裏で代打の準備をしている大島から、「野球は最後まで何が起きるか分からんぞ。辛抱していけ」と声をかけられたそうです。その時の大島は、汗びっしょりになって準備をしていました。

ファイターズがその時すでに37歳だった大島を必要としたのは、強いチームになるためには、彼のように熱く諦めない心を教えてくれるベテランが必要だと感じていたからなのでしょう。

【名言語録その3】

「病気に負けたんじゃない。俺の寿命を生ききったということだ」

大島が亡くなった後に更新されたブログにあった言葉です。ガンによる闘病生活を続ける中、医師から厳しい検査数値を知らされても、家族には「数字に振り回されるな」と毅然と言っていたそうです。

「なるようになる。なるようにしかならない」という大島のスタンスは「医学的には間違っているのかもしれません」と理解しつつも「でもこれが今の私の病気との向き合い方であり生き方なのです。慌てず騒がず行先を見失うことなくこの先も顔を上げて歩いていきたいと思います」と最期まで、自分の生き方を貫きました。

大島には2歳上の兄がいましたが、兄の隆さんはわずか28歳で亡くなっています。それまで内角球を怖がっていた大島ですが、恐怖心を「兄の死を境に克服できた」のだそうです。おそらくその経験が彼の死生観に影響を与えたのでしょう。

自らの記録には執着せず、「記念品は一切残ってない」という大島。でも可能ならばその名を野球殿堂に残したいと願うファンは少なくないと思います。

 


 

 

名言からの学び

・時にあえて流れに乗ることも大事である

・心を伝えるのは人にしかできない

・自分の生き方を決めるのは自分でいい

 

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