岡村浩二の凄さが分かる名言・語録集!阪急黄金時代の名手の伝説エピソードから努力論まで
時代と共に様々なルール改正があるプロ野球ですが、近年の大きな変化といえば、2016年から実施された過剰な接触プレーを禁止するコリジョンルール、2018年から実施されたビデオ映像によるリプレー検証、リクエスト制度の導入でしょう。もしそのふたつが昔からあれば、それほど問題にはならなかったであろう歴史的プレーがいくつかあります。1969年の日本シリーズでの判定もそのひとつで、プレーの主役となったのは岡村浩二です。
1969年10月30日に行われた読売ジャイアンツVS阪急ブレーブス(現オリックスバファローズ)の第4戦でジャイアンツがダブルスチールをしかけ、三塁走者の土井正三が本塁へ突入。二塁からの返球を捕手の岡村がブロックしたものの判定はセーフとなり、アウトを確信していた岡村は審判に怒りをぶつけ、日本シリーズで初となる退場となりました。
翌日、土井の左足が先にホームベースへ触れている写真が新聞に掲載され、審判の判定が正しかったことがわかりました。もし現在ならばクロスプレーはリクエストによって検証されますし、そもそもコリジョンルールで走路をふさぐブロックは禁止されていますから、起こり得ない退場劇ということになります。
今回は伝説のクロスプレーの当事者となった阪急黄金時代の名手岡村浩二の凄さが分かる名言や語録を紐解き、その伝説エピソードから努力論にまで迫ります。
岡村浩二について
まずは岡村浩二の経歴を追ってみます。
1940年11月10日、中華民国天津市で生まれ、終戦後に香川県丸亀市へ引きあげます。高松商業高校では2年の時に春の選抜大会、3年では夏の選手権大会に出場。共にベスト16ら進みます。卒業後は立教大学に進学しますが2年で中退。1961年に阪急ブレーブス(現オリックスバファローズ)に入団しました。
1年目から1軍出場を果たし、3年目となる1963年にレギュラーとなります。1967年から3年連続で2桁本塁打を記録するなど、打撃では一発があり、守備では堅守の捕手として、チームのリーグ3連覇にも貢献しました。1969年にはベストナインにも選ばれましたが、1971年のシーズンオフに東映フライヤーズ(現北海道日本ハムファイターズ)に移籍し、チームが1年ごとに日拓ホームフライヤーズ、日本ハムファイターズと変わる中、1974年に引退します。
日本プロ野球通算14年間で、848安打、85本塁打、打率.224。ベストナイン1回。
引退後は香川県高松市で飲食店を経営していましたが、2023年1月29日に82歳で永眠されました。
私が選ぶ、岡村浩二の凄さがわかる名言・語録集
【名言語録その1】
「ワシはブロックだけが取りえだから」
日本シリーズ初の退場者となった岡村。それは1969年10月30日、読売ジャイアンツVS阪急ブレーブスの日本シリーズ第4戦の出来事でした。4回無死、ランナーが3塁に土井正三、1塁に王貞治、打者は4番長嶋茂雄の場面。カウントはフルカウント。そこでジャイアンツは1塁走者の王がスタートし、長嶋が空振り。捕手の岡村は2塁に送球しますが、3塁走者の土井が本塁突入という重盗をしかけました。
岡村の送球をカットしたセカンドがホームに返球し、ホームベース上では岡村ががっちりとブロックし、土井はアウトかに見えましたが、球審の岡田功の判定はセーフ。激高した岡村が岡田球審をミットで叩き、退場処分となりました。
テレビ放送のビデオを見る限り、土井の足はホームベースに届いていないように見えましたが、報知新聞の宮崎カメラマンが撮った写真に、はっきりと土井がベースを踏んでいるものがあり、翌日の紙面を飾りました。これにより判定が正しかったことが証明されました。
今ならばコリジョンルールでブロックは禁止だし、リクエストによって多角的にリプレー検証される事案であり、そのような結果にはならなかったでしょう。
判定が正しかったことについて岡村は後年振り返り「ワシの心に隙があったんかな」と語っています。土井は大学の後輩で、体も華奢で、「ワシはブロックだけが取りえだから」こそ完全に止めたと思ってしまったのです。
取りえだからというおごりが、日本シリーズ初の退場という不名誉な記録を生んだともいえるでしょう。
【名言語録その2】
「野村さんのいない時代に生まれたい。あの人に勝てるのは顔だけや(笑)」
野村とはもちろん3冠王にも輝いた名捕手野村克也です。捕手として優秀だった岡村ですが、彼の前には大きな壁として野村の姿がありました。
1969年日本シリーズで岡村が退場したプレーを、野村はラジオの中継室で見ていました。後にその場面について「私にはアウトとしか思えなかった」と話しています。「当時、岡村はブロックの名人で重戦車と呼ばれていたからね」と岡村を評価しながらも「だが土井は岡村のブロックを研究していた。左足を目いっぱい伸ばし、はね返される直前、わずかな隙間からベースに届かせた」と解説しています。
結果的に重盗となりましたが、4番長嶋の打順ですし、ベンチのサインだったとは考えられません。状況を考えればフルカウントですから、1塁走者の王がスタートを切るのは当然です。問題は長嶋が空振りの三振だったこと。足は速くない王ですから、2塁でタッチアウトになれば、無死1、3塁が二死3塁になってしまい、得点のチャンスが潰えるかもしれません。そこで土井は岡村の2塁送球の間に本塁に突入したのでしょう。もしアウトになっても二死2塁であり、結果はさして変わりません。そして野村の言う通り、土井は岡村のブロックの癖をしっかり研究していたのだと思います。
どうあれ岡村の退場劇は失策でした。しかし野村は「あの一件だけで岡村の捕手としての評価は下がらないよ」と話しています。「捕手らしい捕手だった。打席に立って、知恵比べをするのが楽しかった」と彼を高く評価していました。
1969年、野村の14年連続ベストナインを阻止したのは岡村でした。岡村にとってただ一度の勲章ですが、野村に一矢報いることができたかもしれません。そしてチームの1967年からリーグ3連覇に欠かせない戦力だったことも、高く評価できるのではないでしょうか。
【名言語録その3】
「人生楽しく生きた方がええやろ。野球かてそうや」
戦後、6歳で中国から引き上げてきた岡村。「もしかしたら、あそこで死んどったかもしれん」という感想は、大陸からの引揚者ならば誰もが抱いた気持ちだと思います。だからこそ「人生楽しく」というのが岡村のポリシーでした。そんな思いもあって1961年のオフには本気でメジャーリーグに挑戦するつもりだったそうです。もし実現していれば日本人初のメジャーリーガーは岡村になっていたかもしれません。
野村克也はここで打てば決勝打という場面で、岡村に対してひと芝居うったことがあるそうです。カウントはスリーボールで打席を外し、ベンチからのサインを見て、わざと舌打ちをし、不満そうにバットを大きく素振りしました。岡村ならばベンチから「待て」のサインが出て、不満なのだろうと考えてくれるかもしれないと思っての芝居です。案の定、様子見のストライクを狙い打ってホームランにしたそうです。
野村は「岡村が確かな観察眼を持っていたから、それを利用できたんだよ」と、その対戦が熟練したプロ同士の楽しい対決だったことを懐かしんでいます。一方、岡村は次男に野村の名前と同じ「克也」と名付けています。
同じ時代にライバルチームで同じポジションを守っていた者同士だからこそ、わかり合えることもたくさんあったのかもしれません。今は共に天国で野球談議に花を咲かせていることでしょう。
名言からの学び
・得意だからこそ、おごってはいけない。
・本物のプロはひとつの失敗くらいで評価は変わらない。
・ライバルもまた戦友である。
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