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駒田徳広の凄さが分かる名言・語録集!満塁ホームラン男の伝説エピソードから人生哲学まで

満塁は点になりにくい、と言われることがあります。確かにフォースプレイがどの塁でも可能なのでアウトをとりやすい面はありますが、統計的には高確率で点が入ります。更に満塁での一発となれば、一気に4点ですから、その威力は抜群です。プロ野球史上ただひとり、プロ初打席で満塁ホームランを放ち、「満塁男」と呼ばれたのが駒田徳広です。

通算満塁本塁打の数では、中村剛也、王貞治、藤井康雄、中村紀洋に次ぐ歴代5位となる13本を記録している駒田ですが、他の打者がシーズン35本以上のホームランを放っているのに対し、彼は最高で27本であり、本塁打より二塁打が多い、典型的な中距離ヒッターです。それで歴代5位というのは驚異的な数字です。

デビューの頃は、吉村禎章、槙原寛己と共に、若き「50番トリオ」として期待され、吉村の大怪我からの復活、槙原の完全試合、駒田の満塁ホームランデビューからの2000本安打という三者三様の伝説をプロ野球史に残し、今なお三者三様な活躍をしています。

今回はプロ初打席で満塁ホームランという伝説を残した駒田徳広の凄さが分かる名言や語録を紐解き、満塁ホームラン男の伝説エピソードから人生哲学にまで迫ります。

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駒田徳広について

まずは駒田徳広の経歴を追ってみます。

1962年9月14日生まれ、奈良県磯城郡出身。中学の時に左打ちに変え、桜井商業高校ではエースで4番を務め、甲子園出場はならなかったものの、高校通算で43本塁打を記録します。1980年のドラフトでは、読売ジャイアンツに投手として2位指名され、入団。

入団後すぐに藤田元司監督に直訴し、野手に転向。1983年に1軍登録され、プロ初打席を満塁ホームランで飾る史上初の快挙を成し遂げます。この年、吉村、槙原も活躍しはじめ、背番号50番台の期待の若手として「50番トリオ」と呼ばれました。

1984年には王貞治を育てた荒川博に1本足打法を学びますが、なかなか結果が出ず、1986年に松原誠の指導でフォームを見直し、1987年にはレギュラーを手にします。1989年には一塁手として定着し、巧みな守備も評価されるようになり、チームの日本一に大きく貢献します。

1993年に故障から不調に陥り、シーズンオフにはFAで落合博満の移籍が確実視されたことで、駒田もFAを宣言し、横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)へ移籍します。

ベイスターズではベテランとしてチームを引っ張り、1998年にはキャプテンに就任。打ちだすと止まらない「マシンガン打線」の中核として、チーム38年ぶりの日本一に貢献します。2000年、9月に通算2000本安打を達成。シーズン終了後に戦力外通告を受け、移籍先を探しますが、翌年1月に引退を宣言しました。

現役通算20年間で、2006安打、195本塁打、打率.289。ベストナイン1回、ゴールデングラブ賞10回。

引退後は解説者、東北楽天ゴールデンイーグルスのコーチ、ベイスターズのコーチ、独立リーグの高知ファイティングドッグスの監督、タレント業など、多方面で活躍しています。

 

私が選ぶ、駒田徳広の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「バーカ」

1989年の読売ジャイアンツVS近鉄バファローズ(現オリックスバッファローズ)の日本シリーズでは、ある事件で二人の選手が主役になりました。ひとりはバファローズの加藤哲郎投手。第3戦で勝利投手となり、インタビューで「巨人はロッテより弱い」と、この年のパリーグ最下位のチームを引き合いに出して揶揄したのです。

もうひとりの主役は駒田です。第7戦に再び先発した加藤から先制弾を放った駒田は、三塁ベース付近で加藤に対し「バーカ」と叫びました。加藤のひと言がジャイアン選手に火をつけ、3連敗から4連勝し、劣勢だったシリーズを逆転しました。近鉄というチームが最も日本一に近づいた瞬間だったと思いますが、結局は日本一にならないままチームが消滅したことを考えると、感慨深いものがあります。

後年、駒田と加藤が対談するテレビ番組があり、駒田は「ロッテより弱い」と言われても仕方がないほど3連敗に不甲斐なさを感じていたそうで、加藤は駒田の「バーカ」という声は歓声で聞こえなかったと語っています。

二人の行為には批判もありましたが、共に口をそろえて「今の野球界には因縁の対決が少ない」と話しています。プロスポーツがエンタテインメントである以上、多少の因縁は舞台を盛り上げる装置として成立します。古くは長嶋茂雄と村山実の天覧試合の本塁打、江夏の21球、清原和博から藤川球児への罵倒など、プロ野球は因縁の歴史でもあり、それをうまく生かすのもプロです。

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【名言語録その2】

「ジャイアンツでは『勝つことが大事』だけど、『どうやって勝つか』がもっと大事だということを学んだ。4番がバントをして勝つ。その部分に最終的に優勝につながる隠し味がある、と。その一方で、ベイスターズでは『勝ち方』ではなくて『自分たちの能力を最大限に発揮すること』が大事だと。思い切ってどんどん打たせることで自信を持たせることが成長につながり、個の力が大きくなることが優勝につながるという野球でした」

駒田はジャイアンツの生え抜き選手の中で、唯一、国内FAで他球団に移籍した選手です。落合博満の獲得やコーチらとの確執など、理由はいろいろあったようですが、かつてジャイアンツの一員でなければ野球をやめるという選手もいた中、その選択にはいろいろとプレッシャーがあった筈です。

チームにより、球団の姿勢も、選手層も違うわけで、同じスポーツとはいっても戦い方はそれぞれ違います。特にベイスターズでは移籍当時、最年長野手であり、日本一を経験した選手として、自ら先頭に立つ立場であり、チームメイトに与えるものも多かっただろうと思います。

守備の名手としても知られた駒田ですが、ベイスターズ時代には6年連続でゴールデングラブ賞を獲得しています。

 

「僕が思う野球の基本というのは、『木や金属のバットで思い切り打たれたものを捕るのは無理』ということ。その代りに『人の手から離れたものは絶対に捕る』こと」

守備について語られたこの言葉の意図は、味方からの送球を落としてはダメだということです。一塁手らしい言葉ですが、チームメイトからの送球は落とさないという思いが、信頼につながり、チームワークにつながるのだろうと思います。

 

【名言語録その3】

「目の前の試合に勝つだけじゃなくて、ここでチームのために一生懸命にやること、その姿勢をみんなに見せることが、その選手のその後の野球人生や、それだけじゃなくて野球を辞めた後の人生にも関わってくる」

日本シリーズで近鉄加藤との対決、ジャイアンツでの確執、ベイスターズからの戦力外通告と様々な節目で、多くの葛藤と戦った駒田ですが、それらを経て、コーチや独立リーグの監督などを歴任することで、更に多くの経験を積み重ねています。

四国アイランドリーグの高知ファイティングドッグスでは監督として、もう一皮むけない選手に「もっとガツガツと一生懸命取り組めば上でやれるチャンスはあるのに、本人がそこまでの気持ちになれない」ともどかしさを感じ、プロ球団として独立リーグの役割についても「勝つんだ、勝つんだとやろうと思っても、現状ではそこまで厳しくできない。地域のためにということばかりをやり過ぎると、ややもすると野球をするボランティア団体になってしまう」と葛藤するなど、様々な問題提起をしています。

独立リーグの監督やコーチをする元プロ選手が増えている中、人気や経営という面でも、実力の面でも、課題を抱えている独立リーグや女子プロ野球などについて、駒田のような人材が発展のための礎として、もっともっと関わっていくことが望まれているように思います。

 


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名言からの学び

・因縁もまた歴史である。

・経験がチームワークを生む。

・多くの試練が、人も組織も成長させる。

 

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