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長谷川良平の凄さが分かる名言・語録集!小さな大投手の伝説エピソードから努力論まで

偉丈夫なアスリートの世界であるプロ野球。その平均身長は180cmを越えています。中でも投手には高身長が多く、190cmを越える日本人選手が30人以上います。現在、プロ野球の投手で一番背が低いのは石川雅規の167cm。石川は通算177勝をあげていますが、石川と同じ身長でそれを上回る197勝をあげているのが長谷川良平です。

長谷川は通算200勝にもっとも近い勝ち星で引退した投手でもありますが、200勝がひとつの価値となるきっかけとなったのは名球会の誕生です。その礎を作った日本球界最多の400勝投手である金田正一が長谷川を「小さな大投手」と讃え、再評価を促したこともありました。

長谷川の価値は、当時、万年最下位争いで「球界のお荷物」とまで呼ばれた弱小球団、広島カープで勝ち星のすべてをあげたことです。もし他の球団であれば200勝どころか300勝も可能だったかもしれません。

今回は広島カープのレジェンドである長谷川良平の凄さが分かる名言や語録を紐解き、小さな大投手の伝説エピソードから努力論にまで迫ります。

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長谷川良平について

まずは長谷川良平の経歴を追ってみます。

1930年3月25日生まれ、愛知県半田市出身。半田商工学校を卒業し、4つのノンプロチームでプレーした後、1950年に設立されたばかりの広島カープの入団テストを受け、入団。ルーキーイヤーからチームトップの15勝をあげます。翌1951年にはチームの勝利数32勝のうち、長谷川ひとりで17勝を記録します。

そのオフに日本プロフェッショナル野球協約が定められ、選手に送られる統一契約書が長谷川には届かず、保留選手の扱いになっていたため、故郷の球団である名古屋ドラゴンズ(現中日ドラゴンズ)への移籍話が持ち上がりました。各球団の思惑などもあり、3ヶ月もの間揉めましたが、プロ野球史上初となるコミッショナー裁定により、カープ残留が決定。彼の残留に広島の街が湧くのを目にした長谷川は、カープでプレーし続ける決意を固めたそうです。

ルキーイヤーから8年連続で2桁勝利をあげ、1955年から57年までの3年間は、3年連続で20勝以上、なかでも1955年は30勝をあげて最多勝利投手となります。弱小チームだけに長谷川の勝利数はチーム成績に直結し、まさに獅子奮迅の活躍でした。

1958年に肩を痛め、1957年に完成した広島市民球場が右のシュートピッチャーには不利な風が吹くこともあり、成績は振るわなくなり1963年に引退。

プロ通算14年間で197勝、防御率2.65、最多勝利1回。

引退後はカープのコーチを経て、1965年に監督に就任し、3年間で通算135勝。退任後は中日ドラゴンズのコーチや再びカープのコーチなどを歴任。2006年、多くの広島県民に惜しまれつつ永眠されました。

 

私が選ぶ、長谷川良平の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「金田とか小山君とか、でかいじゃないですか。でかいからやって当たり前と思われる。そのぶん、損しとる。僕は小さいから、その体でよくあれだけ投げたな、とか言われる。だから、この体ですごく得をしたんじゃと」

金田とは400勝投手金田正一、小山とは320勝投手の小山正明のことです。金田は184cm、小山は183cmと、当時としては大男で、一方の長谷川は167cmです。もちろん長谷川が長身だったとして同様の活躍ができたかはわかりませんが、同じ投手としていろいろ周囲からも言われたでしょうし、思うところもあった筈です。

しかし長谷川は、その体で「すごく得をした」と言います。小さいからこそ評価されるという逆転の発想です。

金田といえば名球会を作り、投手ならば200勝以上がレジェンドと呼ばれるきっかけを作った人物ですが、結果として名球会ができる以前に197勝で引退した長谷川の評価は微妙なものになってしまいました。ですがその金田は1999年にまだ長谷川が野球殿堂入りしていないことについて「あの長谷川良平が、広島で小さな大投手と呼ばれた人が野球殿堂に入ってないちゅうのも馬鹿げてる。彼のように肝心な人を外してきたというのは罪多きことだな」とマスコミに嘆いていました。

2001年、その長谷川の殿堂入りが決まります。「数字は単なる記録、そして思い出にしか過ぎない」と語る長谷川ですが、時代が経過し、直接プレーを見ていない世代が増えてきても、弱小球団での197勝した右腕が、もし強豪チームに入団していたならば何勝していたのか想像できるのは、その記録のおかげでもあります。

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【名言語録その2】

「自分の不安に対して正直に向き合う」

長谷川は現役時代「基本的にオフはなかった」そうです。その理由は「野球が好き、負けたくない。それとやっぱり、不安のかたまりですもん」と答えています。その不安を放っておくと良いことはないので「正直に向き合う」ためにオフはあるのだそうです。

 

「まずは去年やったことのいいとこを伸ばす、悪いとこは探してから直す、という順番になると思うんですよ」

日本では昔から、まず悪いところを直すという考えが強くありました。長谷川のように良いところから伸ばすという発想は、昭和の時代にあまりなかったと思います。身体的には恵まれなかった長谷川だけに、ダメな部分を数えあげてばかりでは意味がありません。まずは意なものを磨きあげたことは正解だったと思います。

長谷川が得意な武器として磨いたのがシュートボールです。1試合で3本もバットを折られた相手選手(初代ミスタードラゴンズの西沢道夫だと言われています)が、試合後にバット代金が大変なのでシュートを投げないで欲しいと頼み込んだという逸話も残っています。

インコースをえぐる決め球のシュートを、それまで打たれたことのない右打者にヒットされたことで、引退を決めたという長谷川。それも自分と正直に向き合った結果だったのでしょう。

 

【名言語録その3】

「小身、弱小、貧乏を逃げ場にしたくなかった」

弱小球団であったカープで、年によってはチームの半分以上の勝ち星を稼いでいた長谷川。1951年に導入された統一契約書の問題でドラゴンズへの移籍騒動もありましたが、熱烈な広島のファンたちの姿を見て、結局は生涯カープを貫きます。

そもそもアマチュア時代に愛知県では好投手として知られていた長谷川に対して、ドラゴンズが声をかけなかった理由は、やはり体格を問題視したからでした。

自分自身と同様に「小身」のカープを支えるエースとして、カープ設立からの8年間で球団があげた376勝のうち、長谷川ひとりで154勝をあげましたが、彼の献身ぶりは打撃にも現れています。

通常、セリーグの投手はヒットを打っても、ケガを怖れ、クロスプレイになりがちな走塁は控えるのが普通です。なので二塁打は必然的に少なくなります。しかし長谷川は通算31本の二塁打を記録しており、それは同じカープのエースだった北別府学の18本、黒田博樹の3本と比べて、いかに多いかが分かります。

長谷川の二塁打の多さは、貧打のチームで勝つため、投手であっても果敢に先の塁へと攻めた結果です。

「自分は欲が深いから。なんで打たれたんじゃろ、思うたら、寝られんときはなんぼでもあった」

身長の小ささも、弱小球団であることも言い訳にせず、ただ自分の投球を貫いた「欲深さ」が小さな大投手を生んだのでしょう。

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名言からの学び

・逆転の発想が常識を変える

・自分と向き合うことが成長につながる

・逃げ道を作らない欲深さが道を切り拓く

 

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