別当薫の凄さが分かる名言・語録集!走れる長距離砲の伝説エピソードから人生哲学まで
かつて東京六大学野球が、日本の野球界の人気を支えていた時代がありました。職業野球と呼ばれたプロ野球はどこか胡散臭いショービジネスと見られ、野球ファンも選手も敬遠気味。その流れを変えたのは皮肉にも大学野球のスタープレーヤーがプロ入りするようになったからです。決定打となったのは立教大学の長嶋茂雄ですが、その呼び水になったひとりが慶應義塾大学のスターだった別当薫です。
1943年の「最後の早慶戦」で慶應の4番を打ち、戦後は主将として東京六大学最初のリーグ戦優勝を勝ち取りました。慶應ボーイらしい育ちの良さげなインテリあれる佇まいと、身長180㎝のたくましさで、女性人気も高く、プロ野球人気の拡大に一役買いました。
プレースタイルは俊足強打であり、1950年に打率.335、43本塁打、34盗塁という。日本プロ野球初のトリプルスリーを達成(同じ年に岩本義行も達成)しました。引退後も監督としてのべ5チームで19年間指揮をとるなど、日本球界に多大な貢献をし、野球殿堂入りも果たしています。
今回は日本プロ野球初のトリプルスリーを達成した別当薫の凄さが分かる名言や語録を紐解き、走れる長距離砲の伝説エピソードから人生哲学にまで迫ります。
別当薫について
まずは別当薫の経歴を追ってみます。
1920年8月23日生まれ、兵庫県西宮市出身。旧制甲陽中学校ではエースで4番を打ち、1937年から2年連続で春の選抜大会、1938年は夏の選手権大会にも出場しました。卒業後は慶応義塾大学へ進学。戦争の最中のリーグ戦でしたが首位打者を獲得するなど活躍し、出陣学徒壮行早慶戦、いわゆる「最後の早慶戦」でも4番を打ちました。終戦後、1946年に再開された東京六大学野球では主将として、戦後初優勝に貢献しました。
大学卒業後は家業の材木店を継ぎますが、ノンプロチーム全大阪でプレーして、1947年の都市対抗野球大会に出場し、準優勝します。その後、27歳のオールドルーキーとして大阪タイガース(現阪神タイガース)に入団しました。初年度から活躍し、途中で骨折による3ヶ月の離脱があったものの、打率3割を大きく上回る成績を残し、「ダイナマイト打線」の一翼を担います。翌1949年には本領を発揮し、3割30本塁打を軽く越えて見せました。
1950年、プロ野球チームがセントラルリーグとパシフィックリーグの2リーグに分裂する騒動が起こり、別当は若林忠志、土井垣武らと共に毎日オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)に移籍。打率.335、43本塁打、34盗塁という日本プロ野球史上初のトリプルスリーを記録。当時は注目されない記録でしたが、走攻守そろった能力を存分に発揮して、MVPを獲得。チームも日本シリーズ初代優勝に輝きました。
1952年にシーズン途中から選手兼監督代行となり、翌1953年は選手に専念するものの、1954年には兼任監督に就任。1957年限りで引退します。
日本プロ野球通算10年間で、965安打、155本塁打、186盗塁、打率.302。MVP1回、本塁打王1回、打点王1回、ベストナイン4回。
引退後もオリオンズの監督を務め、その後は近鉄バファローズ(現オリックスバファローズ)、大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)、広島東洋カープの監督を歴任します。
監督通算(監督代行含む)20年間で、1237勝、いずれも当時は弱小チームばかりで、監督として優勝はありませんでしたが、Aクラス9回は立派ですし、優勝のない監督で初めて1000勝をあげました。また山内一弘、榎本喜八、土井正博、松原誠、田代富雄など多くの選手を発掘し、育ています。
1988年に野球殿堂入りを果たし、1999年4月に心不全のため78歳で逝去されました。
私が選ぶ、別当薫の凄さがわかる名言・語録集
【名言語録その1】
「そのうちに誰が帰ってきた、彼が帰ってきたで始まった」
戦中と戦後をまたいで慶応義塾大学の選手だった別当。1943年の出陣学徒壮行早慶戦、いわゆる「最後の早慶戦」にも出場しました。出陣学徒の名称でわかる通り、大学生も戦争にかりだされることとなり、この試合に先発出場した早稲田大学の3番打者近藤清は神風特攻隊として戦死、5番打者吉江一行、9番打者永谷利幸も戦地で没するなど、両チームの野球部員に多数の戦死者が出ました。
敵国アメリカ生まれのスポーツである野球だけに、「最後の早慶戦」の実施には様々な圧力や困難がありました。しかしそれが実現したことは、別当をはじめとする野球部員だけでなく、応援に集まった両校の学生にも多くの思いを残したことでしょう。
戦後、大学に復学した別当ですが、復員1ヶ後には野球部で合宿所に戻ったそうです。徐々に学生たちが集まり出し、1946年には東京六大学野球の春季リーグが開催されています。プロ野球も同じ年にリーグ戦が、高校野球(当時は中等学校)もこの夏の大会から再開されます。
市民軍人合わせて約310万人が亡くなり、都市の多くが焼け野原になった中、スポーツとしてあるいは娯楽として野球の底力を感じます。
27歳でプロ入りした別当ですが、いろいろな事情はあったものの、この時代の影響もあったはずです。今の時代ならば間違いなく22歳でプロ入りし、5年は長くプレーしていたでしょう。そしてもっと多くの記録と記憶を残していたと思います。
【名言語録その2】
「使っている俺の方が、どれだけ苦しいことか」
優勝していない監督として最多となる勝ち星をあげている別当。招かれるのはいずれも弱小球団ばかりで、監督の人気にあやかりながら、チーム力の底上げをはかる役目を背負わされていた感じがします。
「球界の紳士」と呼ばれていましたが、なかなか気性の激しいところもあり、1964年6月7日の南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)戦では、デッドボールを巡って球審に猛抗議し、いらついた相手投手の巨漢投手スタンカにつかみかかられ、両軍入り乱れた乱闘騒ぎになりました。試合後も球審に対して「放棄試合にするなりなんでもやったらええ。お前、自信があるならケツまくったらどうや」「あんな審判では一生懸命やっている選手がかわいそうだ」と強い口調を止めませんでした。
1972年、大洋ホエールズの監督時代には、成績不振から別当の監督解任を迫る殺人予告の脅迫状が届くなどして、球団側はチームの不成績を理由に別当から休養の申し出があった、と報道されました。しかし別当は「成績が悪いからといって途中で放り投げるような卑怯な真似はしない。最後までやるつもりだったが、休養しろと言われたからユニフォームを脱いだまで」と反論し、球団側も一転してそれを認めました。
また近鉄バファローズでは「18歳の4番打者」として別当が売り出した土井正博が、結果が出ずに先発から外すよう懇願してきたことがありました。しかし別当は「お前はそんな甘い考えでやっていたのか?使っている俺の方が、どれだけ苦しいことか」と怒りだしたそうです。「球界の紳士」の熱量を感じる話です。
その一方で、土井をスカウトした球界寝業師の根本陸夫に「おもしろい男がいるから、見ておいてください」と頼まれたからと、渡米した際に手に入れた当時としては高価なローリングス社のバットとグローブをプレゼントしたそうです。「一流の選手は道具を大切にする。大事に使えよ」と言葉をかけられたとのことですが、その行動の裏には、土井が父親を戦争で亡くし、母子家庭であったことが、「紳士」の頭の中にあったに違いありません。
【名言語録その3】
「本当は尾鷲で生まれたかったし、心はまったく尾鷲人と思っている」
三重県の尾鷲は、別当の父親の故郷で、自身の本籍地でもありました。「私にとって尾鷲は、少年時代の夢の尽きないパラダイスでした」という言葉通り、小学生時代は毎年夏休みの1ヶ月を尾鷲で過し、中学生になっても同級生たちを誘って訪れ、テントを張って過ごしたそうです。
第二の故郷というよりも、心の故郷として、別当は頻繁に尾鷲を訪れて、野球教室や野球大会を開いており、尾鷲市営球場の一角には別当薫記念碑が立てられています。尾鷲市出身の湯浅京己は「別当さんの銅像を少年野球の時に掃除していた。大会にも参加したことがあります」と話しています。
尾鷲市営球場は2024年より解体され、新球場も別の場所に建設されるそうです。別当薫記念碑が今後どうなるのかはわかりませんが、少なくとも尾鷲の地で別当の名前が語り継がれることを願うばかりです。
名言からの学び
・どんな才能も時代に翻弄される
・激しさと優しさは裏腹である
・心の故郷に錦を飾る
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