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秋山登の凄さが分かる名言・語録集!天才アンダースロー投手の伝説エピソードから努力論まで

2022年シーズン、セリーグでは青柳晃洋が変則投手としては斎藤雅樹以来、25年ぶりに最優秀防御率のタイトルを獲得しました。斉藤の前のタイトルホルダーとなると更に29年前までさかのぼることになります。その投手が秋山登です。

青柳もそして秋山もサイドスローなのか、アンダースローなのか、という論議はありますが、秋山が現役の頃はアンダースローと分類されていたので、それで問題はないでしょう。日本プロ野球史上、アンダースローの最多勝利数は山田久志の284勝、2位が皆川睦夫の221勝、そして3位がセリーグ最多となる193勝の秋山です。

秋山が所属した当時の大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)は、セリーグのお荷物といわれた弱小球団であり、もし山田が所属したブレーブス(現オリックスバファローズ)や読売ジャイアンツなど強豪に所属していれば、皆川を越える勝ち星をあげていたかもしれません。

今回はお荷物球団を初優勝に導いた天才アンダースロー投手秋山登の凄さが分かる名言や語録を紐解き、その伝説エピソードから努力論にまで迫ります。

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秋山登について

まずは秋山登の経歴を追ってみます。

1934年2月3日生まれ、岡山県岡山市出身。進学した岡山東高校で高校、大学、プロと生涯の相棒となる捕手の土井淳と巡り合います。3年次に夏の選手権大海で甲子園に出場。「怪童」中西太のいる高松一高に敗れます。卒業後は明治大学に進学。東京六大学野球で3度優勝、全日本大学野球選手権連覇など、名将島岡吉郎監督のもとで大活躍をします。卒業後は土井をはじめ、チームメイト5人が大洋ホエールズに入団しました。

ルーキーイヤーから主戦投手となり、リーグ最多投球回を投げ、25勝をあげて新人王に輝きます。翌1957年にも20勝以上を記録し、1964年まで9年連続で2桁以上の勝利をあげ、うち6回は20勝以上という獅子奮迅の活躍をみせました。なかでも1960年には「魔術師」三原脩監督のもと、秋山は21勝、最優秀防御率に輝く防御率1.75を記録し、チーム初のリーグ優勝と日本一に貢献。見事MVPを獲得します。

1963年からはコーチを兼任しますが、1965年にはそれまでの酷使からか、思うように成績が残せなくなり、1967年シーズン限りで引退します。

日本プロ野球通算12年間で、193勝、防御率2.60。MVP1回、最優秀防御率1回、最高勝率1回、ベストナイン1回、新人王。またダブルヘッダーで1日に2勝を通算5度というのは日本記録であり、もう破られることはないでしょう。

引退後はホエールズで投手コーチ、ヘッドコーチ、監督、二軍監督を歴任。監督としては2年間で96勝。更にスカウトやOB会長として、一貫してホエールズそしてベイスターズを支え続けました。

2000年8月12日、66歳で逝去。2004年にプロ野球殿堂入りを果たしました。

 

私が選ぶ、秋山登の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「自分のものにしてしまえば、上手も下手も変わらない」

1960年代、アンダースローはオーバースローで伸びなかった投手が一縷の望みをかけて転向するケースが多く、大成しないと言われていました。しかしセリーグでは秋山、そして同時期にパリーグでは杉浦忠が活躍し、70年代には山田久志、足立光宏らがアンダースローの評価を一変させました。

メジャーリーグ選抜メンバーとの日米野球もアンダースローの評価を高めました。メジャーで通用する選手はという問いかけに、多くのメジャー選手が山田久志の名前をあげ、実際にボルチモア・オリオールズからは誘いがあったそうです。

しかし平成、令和と時代が変わり、再びアンダースローには冬の時代が訪れています。アンダースローは手本となる人も理論も限られているため、ほとんどが独学となります。秋山の時代では更に難しいものがあったでしょう。それをものにしたのは大学時代の猛練習でした。

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【名言語録その2】

「酷使されたという気はない。学生時代から、そういう使われ方はなれているからね」

秋山が明治大学に進学した時、監督は後に名物監督として知られるようになる島岡吉郎が就任したばかりでした。島岡はいわゆるスパルタ精神主義の監督で、たまたまバックネット工事をしていた人から、1日何万回も重い鉄ハンマーを振ると聞き、ハンマーに比べて軽いボールならば1日1000球投げろと投手陣に命じました。現在ならいろいろと問題になると思いますが、昭和のスポーツ界は心身共に頑強な者のみが生き残る世界です。秋山はそのサバイバルを乗り越えたひとりでした。

プロ入りしてからも、9年連続で56試合以上の登板をし、うち最初の3年間は完投が20を越え、投球回数は3年連続リーグ最多でした。1957年には登板、先発、完投、敗戦、投球回、被安打、被本塁打、四死球、失点、奪三振など、良いものも悪い者も含めてほとんどの記録でリーグトップとなる数字を残しました。敗戦数も4年連続20敗以上、9年連続10敗以上という不名誉な記録も残していますが、当時の大洋ホエールズは1959年まで6年連続最下位で、1955年にはプロ野球記録となる首位と61.5ゲーム差(5位とも27ゲーム差)という弱小チームであり、厳しい環境で大黒柱として投げ続けた証明です。

秋山は「肘や、肩が痛いという投手がいるが僕にはわからん」とうそぶいていたそうですが、その基本には大学で培われた体力だけでなく、投げ続けたからこそ体に負担の少ない投球スキルが身についたのでしょう。しかし登板過多は否めず、200勝目前となる193勝で現役を引退しました。それでも秋山は「酷使」を否定しました。

 

【名言語録その3】

「名球会に入るよりも、素晴らしい経験をさせてもらえた。一片の悔いもない」

名球会の基準となる200勝に、あと7勝届かなかった秋山。いつの間にか200勝がレジェンドの基準になってしまい、秋山の他、197勝の長谷川良平、191勝の松岡弘など、その目前まで到達しながらも引退をした選手への評価が少し低いようです。この3人に共通しているのは現役時代の多く期間、チームが弱小であるということです。もし彼らが強豪チームにいれば200勝に到達していたでしょう。

秋山は当初ジャイアンツに入団予定でした。しかし大学の時に腰を痛めた時期があり、それを理由にジャイアンツ側が獲得を見合わせたため、ホエールズへの入団となりました。そして「超二流」といわれた選手たちを巧みな分業制で起用し「魔術師」といわれた三原監督も、高校から相棒だった土井淳いわく「秋山だけは分業じゃなく全部だった」と語るほど登板させます。その結果、1960年のチーム初優勝につながるのです。

三原は後に秋山に対して「あの時、優勝するためにはエースのお前に頼るしかなかった。だが、その酷使のせいで投手生命を縮めてしまい、本当にすまなかった」と頭を下げたそうです。しかし秋山は三原に感謝こそすれ、酷使を否定しました。

秋山の性格が表れているエピソードがひとつあります。高校時代、甲子園で中西太のいる高松一高と対戦しましたが、秋山は乱調でした。センターの選手と投手交代を告げられた秋山は「嫌だ」と拒絶し、バックスクリーン付近まで逃げたそうです。

謙虚さと負けん気が同居する秋山だからこそ、193勝という記録だったのかもしれません。

 

名言からの学び

・極めればどんなものでも武器になる

・過剰は合理を生み出すもとになる

・成功をおさめるには謙虚さだけでなく、譲らない気持ちも必要である

 

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