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大橋穣の凄さが分かる名言・語録集!愛称「ペロ」で名手の伝説エピソードから努力論まで

日本プロ野球史上、最長飛距離のショートフライは何メートルか、ご存じですか?
答えはおよそ120メートルです。
それは1972年の日本シリーズで記録されました。読売ジャイアンツVS阪急ブレーブス(現オリックスバファローズ)の試合、王貞治が放った大飛球をセンターフェンスの前で捕球したのはショートを守っていた選手でした。それが大橋穣です。

この大ショートフライの種明かしは、いわゆる「王シフト」のひとつとして、シングルヒットよりも長打の確率を減らすために、内野手をひとり減らし、ショートの大橋が外野の守備位置まで移動したためです。

しかしそういったシフトとは関係なく、通常の大橋が守る位置は他の遊撃手よりもかなり深めで、その広い守備範囲と見事な強肩でアウトの山を築き上げました。そんな大橋について落合博満は「史上最高の遊撃手」と褒め、野村克也は彼がいなければ「3000本(安打)を打っていた」とぼやきました。

今回は「ペロ」の愛称で呼ばれた守備の名手大橋穣の凄さが分かる名言や語録を紐解き、その伝説エピソードから努力論にまで迫ります。

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大橋穣について

まずは大橋穣の経歴を追ってみます。

1946年5月29日、富山県氷見市生まれ、東京都新宿区出身。中学生の頃に野球を始め、日本大学第三高等学校では1年次に夏の選手権大会、3年次に春の選抜大会に出場。卒業後は亜細亜大学へ進み、2度の秋季リーグ優勝を果たし、アジア野球選手権日本代表にも選出されます。大学時代はベストナインを4回獲得し、当時の東都リーグ記録となる通算20本塁打を放ちました。1968年のドラフト会議で東映フライヤーズ(現北海道日本ハムファイターズ)に1位指名されて入団します。

高い守備力でルーキーイヤーからレギュラーを獲得。1971年オフに名将西本幸雄の強い希望で、弱小チームだったフライヤーズから、強豪の阪急ブレーブスに移籍します。1972年から3年連続で2桁本塁打を放つものの、打率は伸びないままでしたが、ボビー・マルカーノとの二遊間はまさに鉄壁の守りであり、ブレーブス黄金期を支え、7年連続でのダイヤモンドグラブ賞5年連続のベストナインに輝きます。1981年に右肩を骨折し、翌1982年限りで現役を引退しました。

日本プロ野球通算14年間で、739安打、96本塁打、87盗塁、打率.210。ベストナイン5回、ダイヤモンドグラブ賞7回(遊撃手として歴代2位、パリーグ記録)。

引退後は阪急、オリックス、中日、ヤクルトの他、台湾や韓国のプロ野球チームでも指導者として活躍しました。

 

私が選ぶ、大橋穣の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「まさかショートの僕がフェンスの前で守るなんて」

1972年の日本シリーズで、日本最長距離のショートフライを捕ったことについての感想です。このプレイについて大橋は「ミーティングでもあんなシフトは一切話に出なかった」と話しています。野手が極端にライト側に寄るいわゆる「王シフト」を敷くことは決まっていました。しかしこの場面になってコーチだった上田利治からもっともっと下がれと指示されたそうです。

「気付いたらあの位置ですよ」と大橋はぼやいています。すべては上田の「思いつきなんですよ」と苦笑いを浮かべ「球場全体がざわめくし」と困惑した様子を説明しています。そこに狙ったように王の打球が飛んできました。

日本シリーズで上田と大橋といえば、もうひとつ有名な出来事があります。1978年の阪急VSヤクルトスワローズの第7戦、大杉勝男のレフトポール際の打球がホームランと判定され、監督だった上田による猛抗議で1時間19分もの中断があった件です。

この時、ショートを守り、打球を追っていた大橋はファールと確信し、上田に対して「絶対ファールだから譲っちゃダメですよ」と言ったそうです。すると上田は「わかった」と気合の入った声で答えました。結局コミッショナーまでが介入する事態となりましたが、判定は覆りませんでした。

大橋の「ペロ」という愛称は、大橋が打つ時や捕球の時に、舌を出す癖があることからつけられたもので、名付け親は上田です。大橋が引退した後も、上田は本気で彼に現役復帰を打診したそうです。いかに大橋が名将に信頼されていたのかがわかります。

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【名言語録その2】

「だってそれ、他の選手に失礼だろ」

タレントのダンカンさんとの対談で、ダンカンさんが大橋に関する噂の真偽を確かめようと質問をしました。それは「打球が右中間を破ろうが右翼線を抜けようが、大橋さんがカット(中継)に入っていた」という内容です。その質問に大橋は「それは、いいじゃん。やめよ」とかわし、続けて言ったのが上記の言葉です。

普通、ライト側へ飛んだ打球の中継には、二塁手が入ります。逆にレフト側の中継は遊撃手が入ります。この時、それぞれのベースには背を向けているので、素早い中継をするためには、どこにベースがあるのか事前に把握している必要があります。それは当然球場ごとに感覚が違うし、打球の深さや外野手の肩の強さによっても変わります。更にランナーの状況次第で投げるべき場所も違ってきます。

大橋が外野との中継プレイの多くに関与していたというのは、それらを踏まえた上での判断力、送球力が特に優れていたからでしょう。大橋曰く「他の選手に失礼」というのは、他の選手が下手だったからと誤解されるのを嫌がったからではないでしょうか。この頃、阪急の二塁手といえばダイヤモンドグラブ賞4回の名手ボビー・マルカーノです。むしろ大橋の中継プレイがあまりにも非凡だったのだと思います。

7年連続ダイヤモンドグラブ賞、5年連続ベストナインを受賞した大橋ですが、そのうち規定打席数に達したのはただ一度きりです。ダイヤモンドグラブ賞もベストナインも規定打席到達が必須条件ではありませんが、これだけの回数となると大橋しかおらず、いかに卓越した守備力だったのかがわかります。

だからこそ他の選手をリスペクトするのを忘れない意味での言葉だったように思います。

 

【名言語録その3】

「ブレーブスとは勇者たち。うまいことつけたと思うよ。そうだった感じがするもの。いい名前だった」

「人気のセ、実力のパ」とは昭和によく聞かれた言葉です。当時のパリーグはとにかく人気がなく、今では考えられないほど観客がいませんでした。そのためかセリーグよりも強烈な個性を放つ選手や監督が数多くいました。

そのパリーグの中で、阪急ブレーブスは1967年から1969年まで3連覇、1971年から1972年に2連覇、1975年から1978年まで4連覇と、12年間で9回のリーグ優勝に輝く黄金時代がありました。前半5回はV9ジャイアンツと重なっていたため、日本一にはなれませんでしたが、野球史に残る良いチームだったと思います。

大橋は他の遊撃手よりもかなり深い位置に守っていましたが、難しい三遊間の深いゴロもぼてぼての緩いゴロも、軽々とさばき、強豪チームの要として勝利に貢献しました。

ブレーブスから東映フライヤーズ(現北海道日本ハムファイターズ)に移籍した岡村浩二は、「大橋な、ワシがショートゴロを打ったら、捕球した後、ユニフォームで3回ボールをふいてから1塁に送球しよって。それで楽々アウトや。情けないやら悲しいやら。ええ選手やったなあ」と回想しています。

人気のなかったパリーグも、今では地域密着でファンを大きく増やしています。だからこそチームの歴史と、それを彩った名選手たちを、もっと知って欲しいなと思います。

 


 

 

 

名言からの学び

・思いつきが歴史を変えることもある。

・飛びぬけた才能は比較の対象にはならない。

・人に歴史あり。チームに歴史あり。

 

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