内海哲也の凄さが分かる名言・語録集!人望が厚い心優しき左腕の伝説エピソードから努力論まで
日本のプロ野球でFA制度は選手の権利としてだいぶ理解が進んできましたが、大物選手のFAにからんで賛否が別れるのが人的補償です。この際にプロテクトされるのは支配下登録選手中28名。1軍登録枠が通常29名であることを考えると、この人数は決して多くはなく、将来を見据えて若い選手をプロテクトし、チームに貢献してきたベテランが人的補償となる場合もあります。そんなひとりが内海哲也です。
読売ジャイアンツのエースとして長年チームに貢献し、その人柄を多くの後輩から慕われていた内海も、選手層が厚いチーム事情もあり、人的補償で埼玉西武ライオンズへ移籍を余儀なくされました。しかしそれはライオンズが彼を戦力として評価し、その能力と経験を必要としたということでもあります。
内海の後を継いだジャイアンツのエース菅野智之は「僕はまわりへ影響を与えられるかつての内海さんのようなエースでいたい」と、内海へのリスペクトを口にしています。その謙虚さや礼儀正しさにはライオンズの選手や、更に報道陣やファンまでもが、尊敬の言葉を口にします。
今回は人望が厚い内海哲也の凄さが分かる名言や語録を紐解き、心優しき左腕の伝説エピソードから努力論にまで迫ります。
内海哲也について
まずは内海哲也の経歴を追ってみます。
1982年4月29日生まれ、京都府城陽市出身。小学校2年の時から野球を始め、敦賀気比高校では選抜大会で甲子園出場を決めたものの、チームの主力選手の不祥事により出場辞退となりました。しかしそのピッチングは多くのスカウトに注目され、ドラフトの目玉のひとりとなります。内海はかつて祖父が読売ジャイアンツの選手だったこともあり、巨人の指名以外は拒否を表明。2000年のドラフトでオリックスブルーウェーブ(現オリックスバファローズ)が1位で強行指名しましたが、宣言通り、入団を拒否します。卒業後は東京ガスに入社。2003年のドラフト自由獲得枠でジャイアンツに入団しました。
ルーキーイヤーから1軍デビューし、翌2005年には開幕から先発ローテーション入りをしましたが、4勝にとどまり、その経験を生かした2006年に12勝をあげてからは、左腕エースとして3年連続で2桁勝利を記録。2007年からのリーグ3連覇に貢献します。特に2007年には最多奪三振のタイトルも取りました。
2010年からは4年連続で2桁勝利をあげ、2011年と2012年は2年連続で最多勝利に輝き、上原浩治がメジャーリーグ移籍で抜けた穴を埋め、名実ともにジャイアンツのエースとして君臨しました。
2015年に故障で離脱し、その後は不調と故障で徐々に登板数を減らして行きます。2018年オフにジャイアンツがFAで獲得した炭谷銀仁朗の人的補償として、埼玉西武ライオンズに移籍。故障と手術により、ほとんど登板出来ず、2022年シーズン限りで引退。
日本プロ野球通算18年間で、135勝、防御率3.24。最多勝利2回、最多奪三振1回、ベストナイン1回。
引退後はライオンズのコーチとして、後進の指導に当っています。
私が選ぶ、内海哲也の凄さがわかる名言・語録集
【名言語録その1】
「僕も祖父と同じチームに入りたいという思いがあった」
高校卒業時にジャイアンツ以外への入団は断った内海。ドラフト制度に関しての議論はさておき、内海個人の思いとしては、かつてプロ野球選手だった祖父への思いがありました。祖父である内海五十雄は1938~39年の2年間、ジャイアンツでプレーした内野手でした。通算20試合出場で1安打を放ったのみですが、打撃の神様と言われた川上哲治や猛牛と言われた千葉茂と同期で、ジャイアンツで最初に背番号26をつけた選手です。そして孫の哲也も同じ背番号26をつけました。
自由獲得枠でジャイアンツに入団した後、それだけに満足した内海は、入団当初、あまり練習をしなかったそうです。しかし末期がんで闘病し、無理をして入団発表にも駆けつけた祖母に、1軍での登板を見せられなかったことが、改心するきっかけとなりました。
「おばあちゃんに見せたかったのに、僕は遊んでた。投げる姿を見せられなかった。なんてバカなことをしたんだと思いましたよ。あの後悔だけは二度としたくないなって思って」
そんな祖父母との関係性や思いが、内海の優しい性格を育み、プロ野球選手としてだけではなく、人間として成長させたのだと思います。
【名言語録その2】
「僕は自分のことをすごいと思ったことがないですよ」
連続で最多勝を獲得し、ジャイアンツのエースと呼ばれるようになっても、自分を「すごいと思ったことがない」と言う内海。彼の中にあるエース像というのは「まず結果、次にリーダーシップ、それに加えてオーラ」だそうです。具体的にはチームの先輩である桑田真澄や上原浩治の名前をあげています。
「1、2年でエースになれるわけがない。5年、10年とコンスタントに結果を出して、やっとオーラが滲み出てくるんです」
最初に内海に将来のエースとしての器を感じとったのは、ジャイアンツのエースとして名を残した堀内恒夫です。堀内は監督として「あいつをしっかり育てれば必ず優勝できるチームが作れる」と内海を信じ、打たれても使い続けました。しかし結果を残せず辞任した堀内に、内海は謝罪したそうです。堀内は号泣する内海に「お前には凄い素質がある。俺が言うんだから間違いないよ。申し訳ない気持ちがあるなら、お前の左腕で俺の判断が間違っていなかったことを証明してくれ」と声をかけました。
そして続く原辰徳監督も内海に対して「彼が名実ともにエースに育てば、巨人軍は黄金期を迎えるはずだよ」と語っていました。事実、内海がエースとして君臨した時代のジャイアンツは、2度のリーグ3連覇を達成しています。
「現状には満足したことはないですし、現役である以上は、自分が一番下手なんだと思いながら、練習に取り組んでいるつもりです」
そんな謙虚なエースは、多くの先達の有形無形の影響をしっかりと自覚していたのだろうと思います。
【名言語録その3】
「もうあとがないと思うと、昔より緊張しますよ。ここでしっかり抑えたら、もしかしたら(1軍に)呼ばれるかもしれないという状況になると、緊張してきて思うように投げられなかったりするんです。1勝も遠いけど、1軍が遠い」
ライオンズ移籍後、2021年の言葉です。何かとプレッシャーが大きいジャイアンツで、エースとして活躍した男でも1軍のマウンドは遠く、近づく手ごたえがあると緊張するというのに驚きます。
「子どもたちにもう一度、1軍で投げているお父さんの姿を見せたいんですよ」とライオンズ移籍後も奮闘した内海。高卒ルーキーにも丁寧にアドバイスを送る姿に、辻発彦監督は「本当に尊敬します」と評価していました。
元エースが、FAの人的補償で移籍するというのに、普通ならばいろいろ思うことはある筈です。しかし内海は「早く戦力のひとりとなれるように、まずは人間関係から築いていきたいです」と語り、一回り近く年下の選手にも深々と頭を下げて挨拶し、ライオンズ付きの報道陣からの挨拶も、名刺を両手で受け取り「内海です。よろしくお願いします」と礼儀正しく一礼を返していました。
そんな内海だからこそ、結局ライオンズでは2勝しかあげられなくても、コーチとして求められたのです。
名言からの学び
・人としての成長が、プロとしての成長も促す
・先達の思いを受け継ぐものこそエースである
・謙虚さは人望につながる
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