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宮田征典の凄さが分かる名言・語録集!8時半の男の伝説エピソードから努力論まで

「鉄腕」「怪童」「牛若丸」「七色の変化球」「塀際の魔術師」など、古くからプロ野球では二つ名を付けられる選手たちがいました。その伝統は今も「怪物」「ゴジラ」「闘将」「神の子」と受け継がれています。そんな二つ名の中でも異色なのが「8時半の男」こと宮田征典です。

この「8時半の男」というのは、宮田がマウンドに上るの時間が、いつも決まったように8時半頃だったことから付けられた二つ名です。宮田が現役だった1960年代にはまだ勝ち試合での継投という概念はなく、勝っていれば先発投手が最後まで投げ切るのが当たり前。なので先発投手は一流、リリーフ投手は二流だというのが常識でした。

しかしその常識を覆し、後の時代になってリリーフの重要性が理解されるのを先取りしたような活躍を見せたのが宮田です。その輝きはまさにリリーフ投手の先駆けと言え、投手分業制の幕開けを予感させるものでした。

今回はリリーフ投手の先駆けである8時半の男、宮田征典の凄さが分かる名言や語録を紐解き、その伝説エピソードから努力論にまで迫ります。

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宮田征典について

まずは宮田征典の経歴を追ってみます。

1939年11月4日生まれ、群馬県前橋市出身。中学から野球を始め、前橋高校では練習試合で王貞治のいる早稲田実業高校を完封するなどしましたが、病に倒れます。白血病と誤診された後、実は寄生虫による症状だとわかりましたが、神経性心臓強迫症、発作性心臓頻脈症も発症。3年次に復帰したものの大きな活躍はできませんでした。高校卒業後は日本大学へ進学。体調が戻った宮田は、東都リーグで3度優勝に導き、うち2回は最高殊勲選手に選ばれました。卒業後は読売ジャイアンツと契約します。

1962年のルーキーイヤーは投球フォームを見直し、1軍で28試合に登板します。しかし心臓疾患から長いイニングを投げるのは無理だとわかったため、監督の川上哲治は宮田をリリーフに専念させることを決めました。

2年目となる1963年、47試合に登板し、先発は一度のみという中で、6勝をあげます。リリーフ登板とはいっても、現在のように1イニングだけではなく、複数イニングを投げるのが普通であり、投球回数は110イニングでした。1964年はリリーフだけでなく、先発もこなしましたが、右肩を亜脱臼し離脱。引退も覚悟しましたが、現在のウエイトトレーニングのような練習で肩回りに筋肉をつけ、投球フォームも見直しました。

1965年、宮田は大車輪の活躍を見せます。リーグ最多の69試合に登板し、規定投球回数にも到達。現在の基準で計算すると20勝22セーブという途方もない記録を作ります。そしていつもマウンドに上がる時間から「8時半の男」と呼ばれるようになりました。MVPは二冠王になった王貞治が獲得しましたが、監督の川上や王自身も宮田の活躍にはその価値があったことを口にしています。

1966年、前年度の酷使と肝機能障害などから現役引退を決意。

プロ通算8年間で45勝、防御率2.63。

引退後は解説社だけでなく、投手コーチとしても手腕を発揮し、古巣であるジャイアンツの他、日本ハム、西武、中日で後進の指導に当り、多くの投手を育て上げました。2006年7月13日、肝不全のため66歳で惜しまれつつ逝去しました。

 

私が選ぶ、宮田征典の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「怒った怒った。オヤジはアンチ巨人だったんでね」

大学を卒業後、父親の意向もあり、日立製作所への入社が内定していた宮田。しかしジャイアンツから誘いがあると、独断で日立入社を断り、勝手に印鑑を持ち出して、ジャイアンツとの契約を決めてしまいました。

高校時代に病気で体重は30キロを割るほどになり、心臓にも不安を抱えていた宮田だけに、初めは大学を中退して家業の鉄工所を継ぐつもりだったそうです。しかし大学野球で華々しい結果を残す宮田を周囲は放っておきませんでした。

宮田はその生涯において、数々の病気やケガに見舞われましたが、それはいずれも野球選手として成功するには絶望的なものばかりでした。けれど宮田は8年という長くはないプロ生活の間に、球史に残る大きな功績を残しました。その逆境を乗り越えたのは、父親の怒りなど笑い飛ばし、ものともしない強い意思があったからなのでしょう。

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【名言語録その2】

「僕の名前より、こっちのほうが有名になってますからね」

宮田の二つ名「8時半の男」は、報知新聞の記者だった中山伯男がつけました。ある日、後楽園球場で当時はウグイス嬢と呼ばれていた場内アナウンスの務台鶴さんが「いつも宮田さんの名前を8時半に呼んでいる気がするわ」と言っているのを聞き、思いついたそうです。

当時としては珍しいリリーフとしての起用法は、宮田には心臓の発作があり、医師から長いイニングの登板は止められていたため、川上哲治監督が考え出したものです。ちょうど当時のジャイアンツは藤田元司や中村稔が肩を故障し、超ベテラン金田正一の加入など、完投能力に不安のある先発投手陣であったこともあり、見事に策がハマりました。

リリーフといっても1965年には164.2イニングを投げており、規定投球回数に到達しています。この年の勝ち星は20勝、更に現在の基準に当てはめればプラスで22セーブ、チームが上げた勝利の半数近くに宮田が関わっています。

宮田の武器は正確なコントロールと「ミヤボール」と呼ばれた変化球です。元々はコントロールが悪く、それを矯正するため、多摩川グラウンドの金網に40センチほどの穴を開けたネットを張り、その穴にボールを通す練習を繰り返したそうです。うまく行くようになると今度は意識的に穴をかすらせる練習をしました。「ミヤボール」はシンカーという説やカーブという説がありましたが、本人によればカーブで、それを左右に速さや曲がりを変えて投げわけていたといいます。

本名よりも「8時半の男」という名の方が売れてしまったと笑ってみせた宮田ですが、その呼称は宮田だけの代名詞となり、唯一無二のものです。

 

【名言語録その3】

「十分な働きができなくなった男が過去の実績だけで残っても、監督もやりづらいでしょう」

1969年シーズン、15試合の登板で勝ち星も無かった宮田は、川上監督に来季の戦力に入っていないことを確認すると、上記の言葉と共に引退を告げました。亜脱臼にひじ痛、肝機能障害などを抱えていた宮田にとっては、十分に納得できる現役時代だったと思います。

引退後には4チームで投手コーチを勤めましたが、その熱心な指導は選手たちの信頼を得ます。食事の最中でも携帯電話を手元に置き、教え子から電話があると、どのチームの選手でも音声だけで的確な指導をしていたそうです。

コーチにとって人望の厚さは、指導力への評価です。宮田はリリーフ投手の先駆けとしてプロ野球に貢献しただけでなく、後進の指導という面でも、大きな貢献をしたと言えます。

 

名言からの学び

・逆境は絶望ではない

・唯一無二のものはそれだけで価値がある

・人望は指導力への評価である

 

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