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山内一弘の凄さが分かる名言・語録集!「シュート打ちの名人」と呼ばれた天才の伝説エピソードから努力論まで

プロ野球界には多くの二つ名や異名があります。それはチームメイトやファン、記者などが敬意や親しみを込めて呼ぶものでもあります。「シュート打ちの名人」「お祭り男(オールスター男とも)」「職人」「ミスターオリオンズ」「かっぱえびせん」。これらはすべてひとりに贈られた異名です。その人物とは山内一弘です。

山内は毎日オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)で「シュート打ちの名人」として名をはせ、稲尾和久に「職人」と言われる打撃で「ミスターオリオンズ」の称号を得て、オールスターではMVPを三度獲得して「お祭り男」と称えられました。指導者としては一度教えはじめると止まらないため、有名なお菓子のCMから「かっぱえびせん」と呼ばれました。

プロ野球史上初の300本塁打達成者であり、打撃の神様川上哲治に次ぐ二人目の2000本安打達成者である山内。指導者としても時間を忘れ、いつまででも熱心に選手と向き合う人物としても有名でした。

今回は「シュート打ちの名人」など数々の異名を持つ山内一弘の凄さが分かる名言や語録を紐とき、その伝説エピソードから努力論にまで迫ります。

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山内一弘について

まずは山内一弘の経歴を追ってみます。

1932年5月1日、愛知県一宮市生まれ。旧名山内和弘(後に一弘へ改名)。小学2年生の時に、近所の大人たちが野球をしているところで球拾いをしながら、野球に親しみました。旧制起工業学校(現一宮起工科高等学校)に入学し、投手兼内野手として活躍。高校2年の時に中日ドラゴンズの入団テストを受けたものの不合格でした。卒業後は川島紡績(現カワボウ)に入社します。1951年の11月に毎日オリオンズにテスト生として入団。

1952年、1年目から1軍で出場を果たし、初安打初本塁打を記録しますが、翌1953年は病気療養を余儀なくされます。1954年にレギュラーとなり、主軸を任せられ、打点王を獲得します。この年から16年連続で2桁本塁打を記録。2年連続で打点王となりました。1957年は首位打者に輝き、1959年には本塁打王を獲得。1960年、2年連続の本塁打王3度目の打点王になる活躍で、チームをリーグ優勝に導き、MVPに輝きます。1962年に名前を和弘から一弘に変え、1963年のオフに阪神タイガースのエース小山正明とトレードが成立。「世紀の大トレード」と呼ばれました。

1964年の年タイガース移籍1年目は見事にチームをリーグ優勝に導く力となり、1965年は日本で初となる通算300本塁打を記録し、2000安打にも到達します。1967年のオフに広島東洋カープの監督となった根本陸夫からの誘いに答え、カープに移籍。1968年は通算10回目となるベストナインに選ばれましたが、故障や病気が重なり、1970年シーズン限りで引退します。

日本プロ野球通算19年間で、2271安打、396本塁打、118盗塁、打率.295。MVP1回、首位打者1回、本塁打王2回、打点王4回、ベストナイン10回。

引退後は1979年から3年間、ロッテ・オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)の監督、1984年から3年間、中日ドラゴンズの監督を務めました。

監督通算6年間で、336勝313敗63引分、最高順位は1980年と1984年の2位。

またコーチとして読売ジャイアンツ、阪神タイガース、オリックスブルーウェーブ(現オリックスバファローズ)、台湾プロ野球の和信ホエールズといったプロの他、フランス代表や創価大学でも指導していました。

2002年に野球殿堂入りし、2009年2月2日、肝不全のため76歳で永眠されました。

 

私が選ぶ、山内一弘の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「平凡な人間が非凡なことをするには、ひとが休んでいる間、練習するしかない」

高校時代、野球部に入ったもののグローブが買えず、友人のものを借りてプレーしていたという山内。戦後の貧しい混乱期だけに、高校に進学できただけでも幸運だった時代です。何が「平凡」と「非凡」を分けるのかといえば、今で言う「親ガチャ」のように育った環境が最大の壁でした。しかし、山内はそれを努力で補います。

打撃練習は椅子に座ってスイングが水平になるように工夫し、投手のフォームをよく観察し、ガラス戸に自分の姿を映して素振りをチェックしました。また守備練習はいわゆる壁当てを素手で受け、人差し指の付け根で優しく捕球する練習を繰り返しました。普段の生活の中でも電車に乗れば、看板の文字を素早く読み取る訓練をし、階段があればつま先立ちで何段か飛ばして駆けあがるなど、常に練習を欠かしませんでした。

後に「シュート打ちの名人」など、数々の称号を得る山内ですが、その基本は何でも練習に結びつける工夫と努力の形なのでしょう。

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【名言語録その2】

「小さく鋭くひじ、肩、手首を使える訓練が先。これができてから下半身を一体させるのがベスト」

山内流「シュート打ち」の極意がこれです。あの落合博満でさえ、最初は理解できなかったというだけあって、素人ではまったく理解できません。一見すると上半身の動きの方が下半身より大事だと言っているようですが、しかし山内の打撃の基本は「バッティングは腕ではなく、腰で打つ」にありました。これは高校の野球部監督だった玉腰忠義の教えです。

玉腰は戦前、戦中、戦後に渡り、俊足巧打のプロ野球選手として活躍していました。結核を発症して引退。療養生活を送りながら起工業学校の監督をつとめますが、1957年にわずか36歳で亡くなりました。

「監督、野球、もっとやりたかったでしょうね。もっと試合に出たかったでしょうね。その無念、僕が引き継ぎます」

玉腰が亡くなった後、山内の決意の言葉です。玉腰の教えである「腰で打つ」バッティングを基本に据え、まずは強い身体を作り、次に技術へ向うということを提唱した山内ですが、そこにも病気で早逝した玉腰の影が感じられるように思います。

打撃論や打撃指導をはじめると止まらないことから、「止められない止まらない」とのキャッチフレーズで有名な菓子から「かっぱえびせん」とのあだ名もあった山内ですが、その独特な理論はプロでも難解だと言われました。

それは彼の理屈がただの経験論ではなく、恩師である玉腰の思いをはじめとし、自身が積み重ねたものをすべて注ぎ込んだ賜物だからなのでしょう。

【名言語録その3】

「ボールの内側、外側、上、下、真ん中の5ヶ所だ」

これは山内の指導により、大きく長打力を伸ばすことに成功した高橋慶彦が、最初に「ボールには打つ場所が何か所あると思う?」と聞かれ、「1点ですか」と答え時の返事です。山内はその5ヶ所を意識することで、いろいろなボールを打ち分けられるようになると話しています。

高橋の他にも田淵幸一、掛布雅之、真弓明信、新庄剛志など、多くの選手を指導した山内ですが、その打撃論の難解さのせいか、成果が出せなかった選手やその指導を受け入れなかった選手もいます。受け入れなかった選手として知られているのが落合博満とイチローです。

落合の場合は、指導により打球が飛ばなくなり、直談判して「もうやめてください」と言ったそうです。それでも気さくな山内に食事に誘われるなどして、関係が悪くなることはなく、何年かしてから、打撃についても山内が言いたかったことはこういうことかと理解できるようになったと話しています。

イチローの場合は、あまりに特殊な「振り子打法」は山内だけでなく、小川亨、米村理、大熊忠義、米田哲也ら多くのコーチ陣から理解されませんでした。日本では「振り子打法」にこだわり続けたイチローですが、メジャーリーグに移籍後は更にフォームを進化させ、改めて野球の奥深さを知らしめました。

落合やイチローといったビッグネームが、山内の打撃理論を受け入れられなかったからといって、それがダメだとか間違っているということではありません。かつてとは違い日本人の体格も、運動や生理学の知識や、物理学的あるいは統計的な情報も、常に大きく変化しています。だからこそ理論もまた百花繚乱、自分に合った花を咲かせるツールとして、後輩たちが参考にするアーカイブの1ページに、山内の言葉は残っていくことでしょう。

 

 

名言からの学び

・どんな状況でも工夫次第で練習できる

・自身の歴史が理論になる

・先人の言葉は未来へのアーカイブである

 

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