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タイ・カッブの凄さが分かる名言・語録集!球聖と呼ばれた大リーグ史上最高選手の伝説エピソードから努力論まで

メジャーリーグの創成期、いわゆるベビーフェイス(善玉)として活躍したのは、その名もベビーにちなんだベーブ・ルースです。そして善がいれば悪が登場するのも必然で、ヒール(悪玉)とされたのが、伝説の球聖タイ・カッブです。

昭和の野球マンガでは、シューズ裏の金属スパイクをやすりで削って尖らせ、走塁で滑り込む際に、ベースカバーの野手にその歯を立てるというラフプレーが描かれることがありましたが、実際にそれをやったのがタイ・カッブだと言われています。

もっとも、彼の死後に書かれた伝記は、著者による創作や嘘がかなり混在しているという話もあり、「最低の人格」と揶揄された逸話の多くは簡単に信じられるものではありません。ただ確かなのはメジャーリーグ史上最高の通尊打率.367(.366との説も。ここではMLB公式の打率に準じます)は、今後も破られることはないだろうということです。

今回は虚実入り乱れた伝説の名選手、タイ・カッブの凄さが分かる名言や語録を紐解き、球聖と呼ばれた大リーグ史上最高選手の伝説エピソードから努力論にまで迫ります。

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タイ・カッブについて

まずはタイ・カッブの経歴を追ってみます。

本名タイラス・レイモンド・カッブは1886年12月18日生まれ、アメリカ合衆国ジョージア州ナローズ出身。アメリカ初代大統領のジョージ・ワシントンとも親類となる名家に生まれ、厳格な父親のもとで育ちました。1903年17歳の時に独立リーグでプレイを始めます。1905年、妻アマンダの不貞を疑っていた父ウイリアムがいきなり帰宅して寝室へ踏み込んだ際、不審者だと思ったアマンダが発砲し、ウイリアムは死亡。アマンダは後に無罪となりますが、この事件はカップの人格形成に大きな影響を与えました。

父親の葬式が終わった10日後、カッブはデトロイト・タイガースでメジャーリーグデビューを果たします。翌1906年の後半からレギュラーとなり、1907年には当時史上最年少で首位打者に輝きました。1908年にも首位打者となり、1909年には首位打者、本塁打王、打点王、最多安打、盗塁王のタイトルを総なめにします。1910年はシーズン最終日のダブルヘッダーで、カッブを嫌っていたセントルイス・ブラウンズ(現ボルチモア・オリオールズ)の監督が首位打者をカップと争っていたナップ・ラジョイの打席の際に、三塁手をわざと後ろに下がらせ、三塁前のバントヒットを7本献上するというあからさまな八百長をしかけましたが、カッブが首位打者となります。後にブラウンズの監督とコーチは永久追放されました。またカッブの打席数、安打数、打率にも間違いも見つかりますが、MLBの公式記録は訂正されないままで、今日に至ります。

その後もカッブは打ち続け、9年連続で首位打者を獲得し、更に1年おいて3年連続首位打者となり、2年連続の打率4割超え、当時のメジャー記録となるシーズン安打や盗塁を決めます。しかし、その一方で観客とのトラブル、チームメイトとの不和、審判との衝突など、様々な問題を起こします。

1921年、カッブはタイガースの選手兼任監督に就任。1922年には3度目となるシーズン打率4割超えを記録しますが、1926年にカップはや八百長疑惑に巻き込まれ、裁定するコミッショナーやリーグ会長を含む、様々な遺恨がからむ中、真相は監督としてのカッブが放出しようとした選手の恨みをかった冤罪だとわかり、無罪となります。しかしすでに疑惑を信じたタイガースはカッブの監督解任を発表しており、怒ったカッブは復帰要請を断ります。そのまま引退かと思われましたが、フィラデルフィア・アスレチックス(現オークランド・アスレチックス)の監督コニー・マックに説得されて、1927年シーズン前にアスレチックスへ移籍します。

移籍後、1927年には史上初となる通算4000本安打を達成。そして1928年、打率.323を残しながらも、目の病もあり、このシーズン限りで引退。数々のMLB記録を残し、その30ほどは現在も破られておらず、まさに球聖というべき活躍でした。

MLB通算24年間で通算4189安打、117本塁打、897盗塁、通算打率.367。MVP1回、首位打者12回、本塁打王1回、打点王4回、盗塁王6回。9年連続首位打者、23年連続打率3割以上、12年連続30盗塁以上、ホームスチール55回など、その他数々の記録を残しています。

引退後は1936年に野球殿堂入り第1号となり、1961年7月に74歳で亡くなりました。

 

私が選ぶ、タイ・カッブの凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「野球は男が闘志をむき出しにして戦う、真剣勝負の場である」

カッブの闘争心溢れるプレーは、ラフプレーの乱暴者と裏表であり、長いことチームメイトだったデイビー・ジョーンズ曰く「彼がスランプに陥った時は、話しかけることなんかできなかった。悪魔よりも酷くなっていたから」と言うほどの激しい口調や態度を露わにしました。またメジャー昇格の歓迎会でいきなり暴力事件を起こす不遜さなどから、多くの者に疎まれてもいました。

しかし彼の悪名をより大きくしたのは、彼の死後に書かれた自伝のせいでもあります。ライターのアル・スタンプは選手の言動をねつ造することで有名な人物であり、本が売れるよう話題作りのために、カッブの逸話も誇張やねつ造しました。しかし、もともとの悪名が大きすぎたためか、その多くが払拭されぬまま今に至っています。

確かにカッブのスライディングの際に野手を蹴るようなプレーは危険です。しかしメジャーリーグでは2016年までダブルプレー逃れのために、スライディングで野手の足を引っ掻けるラフプレーが普通に行われていました。日本人メジャーリーガーの岩村明憲も、そのラフプレーで大怪我を負っています。ただそのスライディングも、純粋に足が速いというわけではないカッブが、より先の塁に進むために作り上げたもののひとつであり、通算で900近い盗塁を決めた工夫の結果でもあります。

特別にカッブだけが行ったプレーというわけではないのに、スタンプによるねつ造と自業自得によって、悪玉の球聖が生まれたのです。

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【名言語録その2】

「私は生涯乗り越えることができなかった」

カッブが「生涯乗り越え」られなかったこととは、母親による父親の射殺事件です。母アマンダは浮気をしており、その証拠を見つけるため遠出を偽って家に乗り込んだ父親は、強盗と勘違いされて母親に射殺されました。母親は正当防衛で無罪となりましたが、裁判後、カッブは母親から本当に父親を撃ったのは浮気相手の黒人男性だったことを知ります。彼が粗暴になったのはこの事件以降のことです。

この事件の影響か、カッブは人種差別主義者だと言われていますが、その多くはスタンプのねつ造で、カッブの付き人には黒人の少年がいたし、二グロリーグを観戦し、選手とも交流がありました。黒人であるロイ・キャンパネラを「偉大な選手」と評価し、ウイリー・メイズについても「私が唯一お金を払って見たい選手」と褒めています。来日した際にも中等野球(現在の高校野球)に飛び入り参加し、嘉義農林学校(現台湾の国立嘉義大学。1931年の選手権大会で準優勝)の捕手に盗塁を刺されましたが、カッブは捕手に駆け寄り、笑顔で「やるな」と言って、頭を撫でました。観客と乱闘騒ぎになった時も、観客による両親の事件に関する汚いヤジがきっかけになっており、彼がただの悪玉でなかったことがよく分かります。

カッブは1950年に故郷の町へ多額の寄付をし、病院を設立。そこは現在、周辺3市に関連施設を持つ大きな医療センターとなっており、それぞれカッブ病院やカッブリハビリセンターなど、彼の名前が冠されています。他にも奨学金支援の基金を設立、州内の学生のサポートもしていました。

生涯乗り越えられないトラウマが残る故郷に対して、複雑な思いがあった筈です。しかしその地にこれだけの善意を向けることは、ある意味でカッブが死後まで長い時間をかけ、そのトラウマを乗り越える過程だったといえるかもしれません。

 

【名言語録その3】

「私は自分の生涯に一点の悔いも残してはいない。もしも人生をやり直すとしたら、私は同じことを繰り返すに違いない。ただし、多少あちこちに修正を加えはするだろうが」

自分の人生に「一点の悔いも残してはいない」と言っておきながら、やり直せるなら「多少」「あちこち」修正するというカッブのジョークですが、残された彼の逸話は悪玉としての激しいものや過剰にねつ造されたものばかりではありません。

カッブは「野球本来の面白さは走塁や単打の応酬にある」とし、ベーブ・ルースのホームランを狙う打撃に否定的でした。しかしルースがしっかりと打率も残すようになると「本塁打狙いの打撃をやめれば、4割を越えるのは間違いない」と高く評価し、自身が選ぶオールスターチームにも選出。ルースが亡くなった時も「また来世で会えることを願う」と語っています。

またブラックソックス事件で球界を永久追放になったシューレス・ジョーことジョー・ジャクソンが経営する店を訪れたカッブに、ジャクソンは気付かないふりをしていたところ、カッブの方から声をかけられました。ジャクソンが「メジャーの連中は俺のことなんか忘れたいんじゃないかと思ってな」とあえて知らぬふりをした理由を明かすと、カッブは「ああ。お前が優れたバッターだったということ以外、忘れてしまった」とハードボイルド小説のように答えたそうです。

そして引退後の1950年代に記者からのインタビューで「今の野球界でプレーしたら、どれくらいの打率を残せるか」と質問され、彼は「.310ぐらいだな」と答えました。カッブらしからぬ控えめな数字に記者が驚くと、彼は「私は今70歳を越えているんだ」と微笑みました。

まさに悪玉球聖らしい矜持や美学が感じられるジョークです。

 

名言からの学び

・伝説は真実と嘘で作られる

・簡単に乗り越えられないからこそトラウマである

・どんな生き方にもその人なりの矜持と美学がある

 

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