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高津臣吾の凄さがわかる名言!名クローザーの努力論や人生哲学に迫る!


通常、クローザーを務める投手といえば、真っ直ぐに力があって速く、三振をとれるピッチャーが適役とされます。しかしサイドスローから繰り出すシンカーを駆使して、名クローザーとなったのが高津臣吾です。

ヤクルトスワローズを皮切りに、メジャーリーグで2球団、スワローズ復帰の後、アメリカのマイナーリーグ、韓国リーグから再びアメリカのマイナーリーグ、台湾リーグから日本の独立リーグと、数々のリーグと球団を渡り歩き、マウンドに立ち続けることにこだわり続けた名クローザー。

日本では歴代2位となる286セーブをあげ、メジャーとの通算で歴代3位となる313セーブ。

今回はそんな高津臣吾の凄さがわかる名言を三つほど紹介し、名クローザーの努力論や人生哲学にも迫ってみたいと思います。

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高津臣吾について

まずは高津臣吾の経歴を追ってみましょう。

1968年11月25日生まれ、広島県広島市出身。広島工業高校から亜細亜大学を経て、1990年ドラフト3位でヤクルトスワローズに入団

後に自ら「ナンバー2の男」という本を出しますが、高校時代は上田というエースがいて、甲子園に出場するもののポジションはファースト。大学時代にはドラフト史上最多タイとなる8球団から指名された小池秀郎が同期にいて、またも二番手投手。そんな中、自ら試行錯誤してアンダースローとなり、サイドスローへと変わって行きました。

プロ入団当初は先発をしていましたが、名将野村克也により抑えに転向。シンカーを武器に活躍を始めます。
1994年には最優秀救援投手を獲得し、翌95年にはリーグ優勝と日本一に貢献。胴上げ投手になりました。

1999年、2001年にも最優秀救援投手のタイトルを手にし、2003年には当時の日本記録である229セーブに達し、そのオフにメジャーリーグのシカゴホワイトソックスに入団。翌年、ニューヨークメッツに移りますが、2006年に日本復帰。古巣のスワローズで日本とメジャーの通算で300セーブをあげました。

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しかし2007年限りで自由契約となり、その後は様々な国のチームを転々としながらも野球を続けます。2012年、ついに引退を決意してマウンドを降り、その後は野球解説者を経て、スワローズの投手コーチ、二軍監督を歴任しています。

最優秀救援投手に4度輝き、日本歴代2位の286セーブ、日米通算では3位となる313セーブの記録を残し、通算4度も日本一の胴上げ投手となったのは、まさにトップレベルの争いを制してきた名クローザーの証明でしょう。

 

私が選ぶ、名クローザーである高津臣吾による三つの名言

【名言その1】

「負けて悔しかったり、練習がつらかったりするでしょうが、後々、そのすべての経験が自分をつくっていく」

プロに入るまで、常にナンバー2で、いかにして活躍できるかを模索し、投げ方を変化させてきた高津氏。
甲子園では投げることが出来ず、大学では全日本大学野球選手権で優勝するも、注目されたのは小池秀郎でした。

プロに入り、名将野村克也と名捕手古田敦也という強い味方を得て、決め球のシンカーを磨き、投球術を学んで、球速がそれほどなくても、三振をとれる決め球を持っていれば、抑えは出来るというのを証明しました。

メジャーではチェンジアップと表現された伝家の宝刀シンカーですが、野村克也のアドバイスで覚えた100キロそこそこの遅いシンカーです。球速差があるのでチェンジアップのように空振りがとれ、少し速度をあげてやればゴロを打たせてダブルプレーを狙えるまさに魔球でした。

すべては恩師や同僚の言葉に耳を傾け、努力を続けた結果だといえます。

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【名言その2】

「野球が大好きで、マウンドに上がるのが大好き、相手と真剣勝負をするのが大好き。ただそれだけで一生懸命やってきた」

高津氏といえば、どんなに打たれた日でも、メディアのインタビューにはしっかり答える選手として有名でした。本当は聞かれると嫌だろうという厳しい内容でも、常に真摯に答える姿勢は、記者たちにも愛されました。

その根底は野球が好きでたまらないという思いがあるからなのでしょう。
2006年、所属先が決まらず、監督に就任していた古田敦也から「背番号なしで浦添(キャンプ)においで」と言われ、プライドを捨てて向かったのは、古田への信頼と野球が好きだったからだろうと思います。

 

「真剣勝負が好きなんですよ。やるかやられるか、ピリピリする感じ」

それを経験し続けたいからこそ「辞めるのがこわい、想像したくない」と言っていた高津氏。日本の独立リーグであっても投げ続けた姿は、一流選手としてのプライドよりも、野球選手としての自分を追い求めた結果なのでしょう。

 

【名言その3】

「もうひとつだけ願いが叶うなら、またここに帰ってきたい。来年も、再来年も、ずっとマウンドに立ち続けたい」

独立リーグを最後に引退した際の言葉です。
盟友であり、信頼する古田敦也がキャッチャーを務め、「終球式」として最後の投球を見せたものの、本音はまだまだ投げたかったようです。

今でこそ、NPBで活躍した選手が独立リーグに入って野球を続けるケースも増えていますが、メジャーにまで行った選手がそこまでするのは、当時珍しい光景でした。しかし散り際の美学を大事にするのもプロですが、ぎりぎりまでしがみつくのもプロだと高津氏は教えてくれています

常にナンバー2だった男は、努力や工夫することで活躍できたからこそ、努力や工夫が可能ならばいつまででも続けたい、きっとそう思っていたに違いないと思います。

 

名言からの学び

・好きこそものの上手なれ。大好きで、努力や工夫を続けられることもまた才能。

・良き恩師、良き同僚の言葉に耳を傾けるべし。

・最後まであきらめずにしがみつくことも、プロフェッショナルの生き方。

 

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