正力松太郎の凄さが分かる名言・語録集!プロ野球の父とも呼ばれる読売巨人軍創設者の伝説エピソードから人生哲学まで
現存するプロ野球球団の中でもっとも古い歴史を持っているのは読売ジャイアンツです。1936年に日本職業野球連盟が設立され、7球団によるリーグ戦が始まりますが、連盟はもちろん大阪タイガース(現阪神タイガース)などのチーム創設を後押しし、すべてのお膳立てをしたのはジャイアンツの創設者であり、読売新聞社の社長でもあった正力松太郎です。
正力の尽力により、日本のプロ野球は幕を開けたということで、「プロ野球の父」とも呼ばれ、その名前はプロ野球の発展に貢献した人に贈られる正力松太郎賞として後世に残り、その功績が讃えられています。
正力はプロ野球というひとつの枠組みだけでは語り尽くせない、戦前から戦後のさまざまな歴史にも関わる大物ですが、野球という視点からみれば、野球を学生スポーツからプロフェッショナルに引き上げた最大の功労者であり、日本人にとって野球が国民的スポーツになるに至るのに多大な功績があった人物です。
今回はプロ野球の父と呼ばれる正力松太郎の凄さが分かる名言や語録を紐解き、読売巨人軍創設者の伝説エピソードから人生哲学にまで迫ります。
正力松太郎について
まずは正力松太郎の経歴を追ってみます。
1885年4月11日生まれ、富山県射水市出身。東京帝国大学(現東京大学)から内務省に入り、警視庁警務部長まで務めますが、裕仁親王(後の昭和天皇)が襲撃された虎の門事件が発生し、引責辞職。後藤新平の後押しを受けて読売新聞社の社長になります。そのアイディアマンぶりとさまざまな経営戦略から、一躍、読売を全国有数の新聞社にまで押し上げます。
正力はそのひとつとしてアマチュアスポーツとして人気だった野球に目をつけ、アメリカメジャーリーグ選抜を日本に招聘し、対戦相手として後に読売ジャイアンツの前身となる大日本東京野球倶楽部を創設。続いて日本職業野球連盟を発足させ、全7チームによるリーグ戦を行うようにお膳立てをします。それが現在の日本野球機構へと発展して行きます。
太平洋戦争開戦時には大政翼賛会総務であり、戦時中に貴族院議員でもあったため、戦後、正力はA級戦犯容疑で巣鴨プリズンに収容され、公職追放となりましたが結局は不起訴。
公職追放解除後は日本テレビ放送網を設立し、初代社長に就任。衆議院議員となり、政財界の大物として、プロ野球のみならず柔道、サッカーなどスポーツ界にも大きく貢献し、1969年10月9日に永眠されました。
私が選ぶ、正力松太郎の凄さがわかる名言・語録集
【名言語録その1】
「俺は中学を一番で出た。もっともビリから数えての話だが」
東京帝国大学の頃に、よく同級生に語っていたという言葉です。実際にはビリから三番目だったという話もありますが、いずれにしても決して優秀な生徒というわけではなかったようです。幼少期には体が弱くて、父親に「勉強よりも身体を鍛えろ」と言われたそうで、柔道ではなかなか猛者だったようです。
実家は裕福であり、帝大に入るくらいですから非エリートというわけではありませんが、正力は優等生にはない強い反骨心を持っていました。それは虎ノ門事件で引責を受けた際にも、内務大臣で政府の重鎮だった後藤新平に、まだ40歳にもならない若造の正力が直言したことがあったようですし、それはプロ野球球団の創設の際にも顔をのぞかせています。
明治の頃には、かつて5000円紙幣の肖像に選ばれていた新渡戸稲造が「野球は賤技なり、剛勇の気なし」と批判だったり、強い打球が脳を振動させて良くないといったいう誤解だったりを論じる人たちがいた野球。昭和になり、学生スポーツとして人気であったため、正力がアメリカからメジャー選抜を招聘を画策すると、1932年の昭和7年には文部省が訓令第4号を発令し、「およそ学生野球の本義は教育にある」としてプロと学生の交流試合を禁止。反骨の正力はプロチームである大日本東京野球倶楽部を創設しました。
大日本東京野球倶楽部の前にも、日本運動協会や宝塚運動協会などプロ野球球団はありましたが、正力の成功は全国に7チームのプロ球団の設立を後押しして、日本職業野球連盟を発足させ、リーグ戦を行ったことです。1チームや2チームでは局所的な盛り上がりしか期待できません。地区別対抗のような広がりが生まれたからこそ成功したのです。
【名言語録その2】
「専門家というものは全体の関係は見ていない。専門家の知識は使うべし。それに呑まれてはいかん」
正力がジャイアンツに残した遺訓として有名な3ヶ条があります。
「巨人軍は常に強くあれ」
「巨人軍は常に紳士たれ」
「巨人軍はアメリカ野球に追いつき、そして追い越せ」
1条と2条は今でもよく耳にしますが、3条についてはあまり言及されなくなりました。
正力は早くからメジャーリーグのように、2リーグ制にしたいと考えていました。プロ野球の成功は東京、大阪、名古屋など都市別対抗のようなフランチャイズの分散によってもたらされたものです。いかに東京が世界有数の大都市とはいえ、日本の人口の1割しか住んでいません。読売新聞を全国区の新聞社に押し上げた正力ですから、地方のシェア拡大こそが鍵だと理解していたのだと思います。
ところが自分が作り上げたジャイアンツすら、2リーグ制へのエクスパンションを嫌がりました。特にライバルの毎日新聞の参入が問題視されたようです。それ以外にも中央集権的な感覚で地方はすべてジャイアンツのものという感覚があったのだと思います。正力は読売新聞の言い分を聞かず、2リーグ制へと動き出しました。
2リーグ制に移行後、うっかり「2リーグ分裂」と口にした記者に対して、正力は「分裂ではない。分立と言いたまえ」と怒鳴ったそうです。
長らく人気が低迷したパリーグですが、今は地域密着で観客動員数も増え、まさに「分立」と言える状況です。2004年に起った再編問題によって近鉄バファローズが消滅し、一部の球団が球界再編により1リーグ制にしようとしましたが、ファンや選手会の抵抗と、楽天の参入によってリーグ縮小は回避されました。もし正力が生きていたなら何と言ったのでしょうか。こんなことでは「アメリカ野球に追いつき、そして追い越せ」は無理だと憤ったかもしれません。
かつては球団経営の専門家たちが口をそろえて、球団は企業広告であって単独では赤字しか生まない、と語っていましたが、専門家ではない楽天やDeNAの参入や、各球団のさまざまな努力とアイディアにより、今や多くの球団が単独黒字になっています。
近年は王貞治が更なる球団のエクスパンションについて語るなど、子どもたちの競技人口が減っているのを懸念する野球人が、さまざまな案を打ち出しています。
ここは正力の言葉のように日本の「全体の関係」を見て、エクスパンションも真剣に討議すべき時期ではないかと感じます。
【名言語録その3】
「もっとも重要なことは、自分ひとりで決めるべきだ」
正力といえば、野球界ではヴィクトル・スタルヒンを入団させるために強硬手段をとったり、2リーグ分立に動いたり、政治の世界では自由民主党の大連立を仕掛けたりしましたが、策士というよりも剛腕という印象を受けます。
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それは時に独裁的と言われたのも、まさに「重要なことは、自分ひとりで決める」人だったからなのでしょう。独裁的というのは褒め言葉ではないと思いますが、しかしひとりで決めるということは、責任の所在もひとりに帰するということです。
何につけ責任の所在がはっきりしないことが多い日本社会ですが、正力の決断はそこが明確です。だからこそ悪者にもされやすかったのでしょう。
「僕はよく、愚痴をこぼすな、くよくよ後悔するな、と言っている。第一に時間の空費だし、体も弱る。それに周囲を暗くするから、これほど馬鹿なことはないと思っている」
ポジティブ思考は時に独善的です。しかし正力のこの言葉にはそれだけでなく、「周囲」という文言から読み取れるリーダーとしての目配りも感じられます。
だからこそ「自分ひとりで決める」のは、責任から逃れるつもりはないという覚悟の表れであるように思います。
日米野球の架け橋 鈴木惣太郎の人生と正力松太郎 [ 波多野勝 ]
名言からの学び
・反骨心が新たな時代を切り開く。
・大きな枠組みの中では、専門性はひとつのデータにすぎない。
・責任とは覚悟である。
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