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佐々木洋監督の凄さが分かる名言・語録集!花巻東を率いる若き名将の野球理論や指導方法に迫る!


日本プロ野球で同じ高校出身の投手と打者が対決するのは珍しくありません。しかしメジャーリーグで日本人同士の対決となると話は別です。初めては2007年にPL学園出身の桑田真澄と松井稼頭央の対決です。そして2度目が2019年に菊池雄星と大谷翔平の対決です。この二人は岩手県の花巻東高校の出身で、共に指導したのが佐々木洋監督です。

佐々木は「岩手県内の選手を鍛えて強くする」という信念のもと、基本的に野球留学の生徒を受け入れず、花巻東高校を甲子園の常連校に育て上げました。ですので菊池も大谷も岩手県で生まれ育っています。

花巻東のバックアップの時には捕球姿勢までしっかり取り、どんな打球を放っても一塁ベースを越えたところまで全力疾走をするという、当たり前のようでいて忘れがちなプレイをしっかりこなす選手たちの姿は、まさに高校野球の原点を思い出させるものがあります。

今回は高校卒業から直接メジャーリーグへ進むとも噂された、菊池と大谷という逸材を育てながらも、決して彼らのワンマンチームではないチーム作りを果たした花巻東を率いる、若き名将佐々木洋監督の凄さが分かる名言や語録を紐解き、その野球理論から指導方法に迫ります。

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佐々木洋監督のプロフィール詳細

まずは佐々木洋の経歴を追ってみます。

1975年7月27日生まれ、岩手県出身。黒沢尻北高校から国士舘大学に進学し、捕手として活躍しました。当時の国士舘大学野球部は東都リーグの2部で優勝はするものの、1部との入れ替え戦には勝てない時期でした。

高校時代から「高校野球の先生に」なりたいと考えており、教育実習では練習試合で知りあった横浜隼人高校の水谷哲也監督を慕って同校へ。教員資格を取り、大学卒業後は横浜隼人の教員になり野球部のコーチとなりました。

2000年には自ら地歴公民の教員公募で花巻東高校の教員になったため、当初はバドミントン部、女子ソフトボール部の顧問を経て、2002年にようやく野球部監督に就任。2005年夏の選手権大会で甲子園初采配をふるいます。2009年には菊池雄星を擁して春の選抜大会での初勝利から一気に決勝まで進み、惜しくも準優勝。夏の選手権大会ではベスト4に進出します。

その後、2011年の夏、2012の春と大谷翔平をエースに甲子園に臨みますが、共に1回戦で敗退。2013年の夏にベスト4、2018年の春にベスト8、2019年時点で甲子園通算15勝を上げ、花巻東を岩手県球界を代表する高校に押し上げました

 

私が選ぶ、佐々木洋の凄さがわかる名言・語録

【名言・語録その1】

「野球選手を育てるのではなく、野球が出来る立派な人間を育てる」

横浜隼人高校のコーチを経て、野球後進県と思われる岩手県に戻った時、佐々木は県内に素材のいい選手が結構いることに驚いたそうです。岩手にいたままでは気づけなかっただろうということですが、同時に岩手と関東の選手では能力が違うと思っていたのが恥ずかしくなったそうです。それで野球留学生を集めずに県内の選手を鍛えることにしました。

 

「選手の能力の問題じゃなくて、指導者の能力の問題というのがわかった。急に雄星や大谷が出てきたわけじゃない。二刀流ができる選手が以前からいたのに、育てる環境がなかった。昔からプロにいける選手がいたのに、指導者がいなかった。それをすごく痛感した」

地方の私立高校の中には、甲子園激戦区である関東や関西の実力ある中学生を野球留学で集めているところもあります。別にそれは生徒たちの人生経験の面でも悪い事ではありません。しかし指導者の能力の問題で、地元の素材に目が向かなかっただけとするなら、もったいない話です。

野球部員の髪型が自由な花巻東ですが、初めはそれまでの坊主で無くなることで、見られる意識が希薄になり、野球部員としての自覚が薄れないかとの危惧があったようですが、「ちゃんと指導していないからそういうことになる」と佐々木は言い、髪型ではなく佐々木自身の指導次第だとしています。そこにも指導者としての矜持が感じられます。

花巻東ではベンチ入りから漏れた3年生の引退試合の後に、メンバーから外れた3年生はそれぞれのポジションにつき、バッターボックスに立つ佐々木に向かって、3年間の思いを大声で叫び、それに応えるように佐々木はひとりひとり全員に一球だけノックするそうです。その光景を見た長嶋茂雄の娘でスポーツキャスターの長嶋三奈は「これまで感じたことのない気持ちが胸にあふれてきました」と語っています

まさに人間を育てている光景だという気がします。

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【名言・語録その2】

「監督が主人公のうちは勝てない。監督はあくまで演出家。選手たちをいかに主人公にするか」

花巻東の監督になってある程度の自信がわいてきた頃、佐々木はかつての恩師に来てもらい、練習を見てもららいました。その時の恩師はひと言「お前が選手の邪魔をしている」とつぶやいたそうです。

 

「やったつもり、言ったつもり、踏んだつもり、つもりつもって何もない」

まさに懸命にやったつもりで、一人相撲を取っていたようです。しかし2015年にドラフト3位で広島カープに入団した高橋樹也には「元をたどって考えなさい」と諭すようになりました。

 

「ドラフト3位で指名されたのは、U18で日本代表に選ばれたからだ。日本代表に選ばれたのは甲子園に出られたからだ。甲子園にでられたのは岩手県大会で優勝できたからだよな。じゃあ県大会で自分はどうだった?決勝は調子が悪く、一関学院に8失点している。勝てたのは打線のおかげ。バッター陣に感謝だよな」

因果に基づいて、人が社会性や関係性の中で生きていることを、わかりやすく的確に伝える言葉だと思います。

 

「教育もしっかりして、尚かつ勝たせるのがプロ。教育だけに走ってもダメだと思いますし、勝利にだけ走ってもダメだと思うので、いつまでもそういうプロであり続けたい」

まさに高校野球のあり方に対する最良の答えであるように思います。

 

【名言・語録その3】

「権利と義務」

大谷が佐々木から学んだこととして、よく語っている言葉です。

その内容を要約すると、たとえば100人を越える部員のうちで、甲子園のベンチに入れるのは18人のみ。さらに試合に出られるのはもっと少ない。結局のところグラウンドに立つことができなければ、何もできない。試合に出ることで初めて打ったり走ったり投げたりする権利が生まれる。ゆえに試合に出る選手は、たとえば全力疾走のように目に見える形で、ベンチ外の選手たちに対する義務を果たさなければならない。ということです。

さすがに地歴公民の先生だけあり、権利と義務をうまく説明しています。そしてそう公言する限り、監督としての権利と義務も考えた筈です。

大谷は2年生の夏の岩手県大会前にケガをしていたため、甲子園ではリリーフ登板のみで、更に彼の将来を考えて、佐々木は大谷に翌年まで投球禁止を命じています。翌年の春の選抜大会がかかった東北大会は準決勝で敗れますが、接戦だっただけに大谷が登板していれば勝てた可能性はありました。

しかし佐々木は「大谷のゴールはここではない」「ここで大谷を壊すわけにはいかない」と登板させませんでした。

2019年に同じ岩手県大会の甲子園のかかった決勝戦で、登板過多による故障を懸念して、プロ注目の大船渡高校佐々木朗希が登板しなかったことに賛否が巻き起こりました。似たケースで佐々木は同様に大谷の登板を忌避しているのです。

 

「徐々に段階を踏んで、一歩一歩登るように。体とピッチャーとしての成長、そして人間的な成長が、それぞれにゆっくりした曲線を描きながら上がっていくように。まずは体と心の育成をじっくりやっていこうと決めました」

その姿勢は、教育と勝負の狭間で導き出した、高校野球の監督として権利と義務を表しているように思います。監督は選手を起用する権利と守る義務を負っているのです。

 

名言からの学び

・指導者の無能を生徒のせいにしない。

・チームもひとつの社会である。

・選手はもちろん、監督の権利と義務も考える。

 

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