ランディ・ジョンソンの凄さが分かる名言・語録集!天才メジャーリーガーの伝説エピソードからイチローとの関係まで
日本人プロ野球選手でもっとも長身だったのは馬場正平こと、後のジャイアント馬場の209センチメートルです。一方、メジャーリーグでは2メートルを越える長身選手はたくさんいますが、その中でも「ビッグユニット」と呼ばれ、馬場とほぼ同じ身長から繰り出す快速球で野球殿堂入りも果たしたのが、ランディ・ジョンソンです。
長い腕をしならせて、サイドスロー気味のスリークォーターから投げ込まれるボールは、速いばかりでなく、角度もあるため、左打者は背中からボールが襲ってくる感じがし、更に右打者はボールが自分に向かってきてバットをへし折られました。荒れ球で死球も多かったので、打者の恐怖感は相当のものだったと思います。
もっとも長く所属したシアトル・マリナーズでは背番号51番をつけており、その番号を継いだのがイチローだという縁もあって、日本の野球ファンにもお馴染みの歴史に残る大投手です。
今回はサイヤング賞5回に輝く「ビッグユニット」天才メジャーリーガー、ランディ・ジョンソンの凄さが分かる名言や語録を紐解き、伝説エピソードからイチローとの関係にまで迫ります。
ランディ・ジョンソンについて
まずはランディ・ジョンソンの経歴を追ってみます。
1963年9月10日生まれ、アメリカ合衆国カリフォルニア州出身。リバモア高校を卒業し、1982年のドラフト4巡目でアトランタ・ブレーブスに指名されますが、合意せず、南カリフォルニア大学へ入学。1985年のドラフト2巡目でモントリオール・エクスポズ(現ワシントン・ナショナルズ)に指名を受けて入団。
1988年の9月にメジャー昇格し、翌1989年には開幕から先発ローテーションに入りますが、成績を残せず5月にシアトル・マリナーズへトレードとなり、マリナーズで7勝を上げます。1990年、コントロールには難があったものの、ノーヒットノーランを達成するなど、14勝を記録し、チームのローテーションを担うようになります。
1990年からは6年連続で二桁勝利を上げ、1995年には投手として最高の栄誉であるサイヤング賞をマリナーズの投手として初受賞。1997年、やはりチーム初となるシーズン20勝を記録します。しかしFAの問題などもあり、1998年途中でヒューストン・アストロズにトレード、地区優勝に貢献しますが、シーズンオフにはFAとなり、創設2年目のアリゾナ・ダイヤモンドバックスと契約します。
1999年は270イニング以上投げ、23試合で二桁奪三振を奪うなど、快刀乱麻ぶりを見せ、チーム創設2年目での地区優勝へと導き、自身2度目サイヤング賞を獲得。2000年には史上12人目の3000奪三振を記録し、2年連続3度目のサイヤング賞。そして2001年、21勝を上げるなどチームを牽引し、創設わずか4年目でワールドシリーズチャンピオンへと導き、3年連続4度目のサイヤング賞に輝きます。2002年には2年連続で20勝以上を記録し、チームも地区優勝。なんと4年連続で5度目のサイヤング賞を獲得します。
2003年は故障により調子を落としますが、翌2004年の5月に史上17人目の完全試合を達成。両リーグでのノーヒッターは史上5人目でした。更に史上4人目の4000奪三振を記録します。2005年、トレードによりニューヨーク・ヤンキースへ移籍。翌2006年と連続で17勝をあげますが、何事にもうるさいニューヨークを離れたいと志願し、再びダイヤモンドバックスへ移籍。2シーズンを過ごし、2009年にFAでサンフランシスコ・ジャイアンツと契約。6月に史上24人目の300勝をあげましたが、シーズン終了後に引退しました。
メジャーリーグ通算22年間で、303勝、4875奪三振、防御率3.29。サイヤング賞5回、最多勝利1回、最優秀防御率4回、最多奪三振9回。通算4875奪三振は史上2位、通算奪三振率10.6は史上1位。
引退後はフォトグラファーとして活躍し、ダイヤモンドバックスの特別補佐にも就任しました。2015年に野球殿堂入りを果たしています。
私が選ぶ、ランディ・ジョンソンの凄さがわかる名言・語録集
【名言語録その1】
「この日のピッチングをタイムカプセルに入れて未来の人に観てもらいたい」
2001年5月8日、ジョンソンはシンシナティ・レッズ戦で9回20奪三振の快投を見せました。試合は延長となり、10回にマウンドを譲りますが、11回に勝ち越し、試合後に上記の言葉を残しました。
9回での奪三振日本記録は野田浩司の19個です。個人的には2011年に田中将大が18奪三振を奪った試合を覚えていますが、それだけ三振を奪うと、ほとんどのアウトが三振だと錯覚するほどの印象を受けます。それが20となると本人もまさに会心の出来だと感じたことでしょう。
野球選手になっていなかったらロックミュージシャンになりたかったそうで、その風貌だけでなく、レッドツェッペリンが好きだというところからもハードなイメージを抱いてしまいますが、大卒のインテリでもあり、子どもの頃は泣き虫で、リトルリーグの入団テストでも寂しくて途中で家に帰ってくるような少年だったそうです。
その繊細さは、凝り性の芸術を好む性格に結びつき、引退後にフォトグラファーへと転身したのも、そのような美的感覚の成せるわざなのでしょう。
まさに芸術的な奪三振ショーは、彼の作品のひとつだったのかもしれません。
【名言語録その2】
「肉体的限界は、とっくに過ぎているよ。でも年齢は単なる数字にすぎない。過去の成績に満足せず、より向上したい。そんな気持ちが今の自分を支えているんだよ」
45歳まで投げ続けたランディ・ジョンソン。その年齢もさることながら大卒で300勝以上をあげたのも驚異的です。日本では大卒最多勝は村山実の222勝です。
子どもの頃から背が高く、運動神経も良かったのですが、その大きな体をなかなかうまく使いこなせなかったようで、プロ入り後もコントロールに苦しみました。
若い頃は四死球の多さから、自滅することもあったジョンソンですが、彼に限らず長身投手はコントロールに苦しむケースがあるようです。彼もメジャーリーグ史上5位となる190の死球を与えています。日本の野球界でもいわゆるノーコンを修正するのはなかなか難しく、イップスのようになってしまう選手もいます。
しかしジョンソンは、キャリアを重ねると共に四死球を減らすのに成功し、それと比例して、負け数も減り、奪三振も増え、ついには完全試合まで達成します。
あまり目立ちませんが、14回もシーズン200イニング以上投げ、271イニングを投げた年もあり、とにかく投げまくっていたジョンソン。そこには飽くなき向上心と体力が技術を押し上げた成果があるように思います。
【名言語録その3】
「YES!GO AHEAD」
ジョンソンがマリナーズを去り、彼がつけていた背番号51はイチローが背負うことになります。イチローはその時、51番をつけていいかと、わざわざジョンソンに手紙を送りました。ジョンソンの返事は「YES!GO AHEAD」という背中を押す言葉だったそうです。
イチローは「この番号に恥じないようにする」と語り、事実、マリナーズのレジェンドとしてばかりでなく、メジャーを代表するヒットメーカーとなりました。
マリナーズの背番号で永久欠番になっているのは、ケン・グリフィー・ジュニアの24番と、エドガー・マルティネスの11番です。メジャー全球団で初の黒人メジャーリーガーのジャッキー・ロビンソンがつけた42番は永久欠番扱いなので、合わせて3つですが、4つめとして51番をどうするかが注目されています。イチローとジョンソンという素晴らしい選手がふたりもつけた番号だからです。
ジョンソンは2015年に野球殿堂入りし、いち早くダイヤモンドバックスが51番を永久欠番にしています。イチローもいずれは殿堂入り確実とみられますし、マリナーズの対応に注目が集まります。
ただヤンキースでは42番がジャッキー・ロビンソンとマリアーノ・リベラ、8番がヨギ・ベラとビル・ディッキー、シカゴ・カブスでは31番がグレッグ・マダックスとファーガソン・ジェンキンスというように、同じ番号で複数の永久欠番を決めている場合もあります。
もしかしたら揃って、永久欠番ということもあるかもしれません。ついでにオリックス・バファローズも51番の永久欠番を実現させてほしいものですね。
名言からの学び
・優れたプレーには美的センスが必要である。
・向上心が結果を変える。
・両雄並び立たず、ではなく、両雄並び立つ、こともある。
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