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大杉勝男の凄さが分かる名言・語録集!名球会、野球殿堂入りを果たした男の伝説エピソードから努力論まで

1978年10月22日、阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)vsヤクルト・スワローズ(現東京ヤクルトスワローズ)による日本シリーズ第7戦が行われた後楽園球場、6回裏スワローズの攻撃で左翼ポール際の大飛球を巡り、ホームランとの判定にブレーブスの上田利治監督が猛抗議。なんとシリーズ史上最長となる1時間19分もの中断となりました。その大飛球を放ったのが大杉勝男です。

コミッショナーが仲裁に入るほどの騒動になった伝説のホームランですが、飯島滋弥コーチから「月に向かって打て」とアドバイスされ、NPB歴代9位となる通算486本塁打を放った大杉にとっても印象深い一発だったことでしょう。

セパ両リーグで活躍した大杉は、NPB史上初となる両リーグで1000安打を放ち、その記録はいまだに大杉と落合博満しか達成していません。

今回は両リーグで1000安打を放ち、名球会、野球殿堂入りを果たした大杉勝男の凄さが分かる名言や語録を紐解き、その伝説エピソードから努力論にまで迫ります。

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大杉勝男について

まず大杉勝男の経歴について追ってみます。

1945年3月5日生まれ、岡山県勝田郡奈義町出身。関西高校では1年生ながらレギュラー捕手となり、卒業後は丸井に入社。1964年に丸井の野球部が休部し、監督の勧めもあって1965年に東映フライヤーズ(現北海道日本ハムファイターズ)のテストを受け、入団します。

ルーキーイヤーから1軍に昇格し、三塁手兼外野手として初安打初本塁打を記録。1967年に飯島滋弥コーチによる「月に向かって打て」のアドバイスで長打力を開花させ、レギュラーとなり、27本塁打を放ちました。この年から引退する1983年まで17年連続で2桁本塁打を記録します。1970年からは3年連続で40本塁打以上を放ち、2年連続の本塁打王に輝きます。1972年は打点王を獲得。当時史上最少試合数で通算200本塁打に到達。1974年オフに球団が東映から日本ハムに変わり、チームカラーを一新。大杉はヤクルトスワローズに移籍しました。

1975年は急性胃炎もあり低迷しますが、翌年には復調し、1978年は球団初のリーグ優勝に貢献。日本シリーズではMVPにも輝き、チームを日本一に導きます。1981年に通算2000本安打を達成。1983年、プロ野球史上初となる両リーグ1000本安打、両リーグ1000試合出場を記録しました。しかし持病の不整脈の悪化もあり、このシーズン限り引退します。

日本プロ野球通算19年間で、2228安打、486本塁打、打率.287。本塁打王2回、打点王1回、最多安打1回、ベストナイン5回、ダイヤモンドグラブ賞1回。

引退後は野球解説を務めましたが、1992年4月に肝臓がんのため逝去。47歳でした。

 

私が選ぶ、大杉勝男の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「俺の打法と合わない。もうやめた」

大杉が長距離砲として開花したのは、1967年に飯島滋弥コーチに師事してからです。ある日、後楽園球場でのナイトゲームで、左中間スタンドの上にぽっかりときれいな月が浮かんでいました。すると飯島が大杉にその月を指して「あの月に向かって打ちなさい」と言ったそうです。

飯島の言う通りにするためには、当時の日本ではやったらいけないスイングとして評価されていたアッパースイングをするということです。かつての日本ではプロからアマチュアまで、ダウンスイングが最良だという指導がありました。現在はメジャーで使われる「バレル」という長打が出やすい打球速度と角度の指標もあり、アッパースイングも認められています。

ダウンスイングがベストだという考えは、V9を達成した読売ジャイアンツが手本としたという「ドジャースの戦法」によるスモールベースボールが広く知られたことや、当時の日本人の体格ではアッパースイングでバレルゾーンの角度で打っても、体格や筋力の問題で打球速度が上がらずにポップフライが多かったためでしょう。

しかしパワフルな身体能力を持った大杉には「月に向かって」打つのが合っていました。後に王貞治を育てた荒川博に荒川流ダウンスイングの指導を受けましたが「俺には合わない」と再び「月に向かって」打ち始めたのです。

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【名言語録その2】

「腹が立った。もう一本、打ってやる」

1978年、阪急ブレーブスVSヤクルトスワローズの日本シリーズ第7戦、大杉が放ったレフトポールの頭上を超える大飛球の判定はホームラン。しかしブレーブスの監督だった上田利治が猛抗議を行い、あわや試合放棄かという事態にまで陥ります。ついにはコミッショナーも介入し、なんと1時間19分もの中断となりました。

「腹が立った。もう一本、打ってやる」と決意した大杉は、次の打席で文句なしのホームランを打ってみせました。すでに上田も大杉も亡くなっていますが、上田は人生の最後まであれはファールだったと言い続け、大杉は審判がホームランと言ったんだからと笑っていました。

武闘派としても知られ、張本勲も「大杉は強い」と語っていますが、1970年にはそれを証明するような事件が起こります。西鉄ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)のボレスがタッチアップしようとして途中で引き返し、カバーに入った大杉と衝突。二人は口論となり、ボレスが先に大杉に殴りかかります。しかしなぜかボレスの方が口を切り、血を流して崩れ落ちました。大杉のパンチが炸裂していたのです。

ですが大杉は退場になりませんでした。大杉のパンチが速すぎて、審判は誰もそれを見ていなかったからです。どちらも大杉の身体能力の高さと鍛錬ぶりがよくわかるエピソードです。

キャンプの時など相部屋になると、いきなり真夜中に目を覚ました大杉が、いつも枕元に置いていたバットを振り出すことがあったそうです。どんな時でも常に戦う意識がそうさせたのだろうと思います。

【名言語録その3】

「この1本をファンの皆さまの夢の中で打たせてやってくれれば、これにすぐる喜びはありません」

プロ野球初の両リーグ1000本安打を記録した大杉ですが、本塁打もパリーグで287本を放ち、セリーグでも199本と、あと1本で同じく日本初の両リーグ200本塁打というところで引退を決めました。そして届かなかった1本はファンの夢にたくしました。

道具へのこだわりも凄く、ある時、37インチ(約94センチ)という長いバットをメーカーに注文し、第一打席でいきなりホームランを放ちましたが、そのたった一振りで「これは使えない」と見切ったそうです。またユニフォームも「明日までに上着を全体的に1センチずつ生地を出して大きくしてくれ」と細かなところまでこだわりました。

無頼派のわりに飛行機が苦手で、遠征は電車での移動。車の運転も法定速度80キロの高速道路を50キロくらいで進むこともあったと、スワローズで同僚だった八重樫幸雄が語っています。八重樫は大先輩である大杉に「乗って行けよ」と気さくに言われて、よく同乗させてもらったそうですが、一度だけ危険運転をした車の前に回って止めたことがありました。運転手に「ああいう運転はするな」と注意し、「子どももいるんだろ」とホームラン賞でもらったおもちゃを渡したそうです。

まさに気は優しくて力持ちというのを体現していた大杉。1978年のアリゾナキャンプ参加メンバーから杉浦享が外れた時には励ましと叱咤の手紙を出し、解説者となってからは、しっかりとアナウンサーに話し方を学んで臨みました。

自分に対しては厳しく努力し、他人に対しては優しい、そんな大杉の生きざまが伝わってきます。

 

名言からの学び

・自分に向いている方法論を選び取る

・勝負師は常在戦場であることを忘れてはならない

・強さと優しさを両立するには厳しさと鷹揚さが必要である

 

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