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黒木知宏の凄さが分かる名言・語録集!天才投手の伝説エピソードから努力論まで

エースという称号には単に「勝ち」星だけではない「価値」があります。相手チームはその名前を聞いただけで難しい戦いになると顔をしかめ、たとえ敗北を喫したとしてもファンやチームに誰よりも悔しさを伝えられる存在。それがエースです。まさにマリーンズのエースと呼べる存在だったのが黒木知宏です。

黒木といえば「ジョニー」の愛称で有名です。また1998年の七夕の日、歴史的連敗を止められずにマウンドに崩れ落ちるシーンは、マリーンズのファンではなくとも覚えている人は多い筈です。この敗戦を経験したからこそ、彼は本物のエースになったのだと思います。

かった時代のチームを支え、故障により長期離脱すると、皮肉なことにチームが強くなって行ったという悲運のエースでもあった黒木しかし多くのファンは歴代エースのひとりとして彼の名前を忘れません。

今回はジョニーこと黒木知宏の凄さが分かる名言や語録を紐解き、天才投手の伝説エピソードから努力論にまで迫ります。

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黒木知宏について

まずは黒木知宏の経歴を追ってみます。

1973年12月13日生まれ、宮崎県日向市出身。中学生の時にパワーリフティングの県大会で優勝。本格的に野球に取り組みはじめた延岡学園高校では、3年の時に夏の選手権大会で甲子園に出場しました。卒業後は新王子製紙春日井に入社。都市対抗野球で本田技研鈴鹿の補強選手として優勝に貢献。1994年のドラフト会議で千葉ロッテマリーンズに逆指名2位で指名され、入団しました。

ルーキーイヤーから即戦力として先発もリリーフもこなし、初勝利を初完封で飾ります。翌1996年も先発からリリーフまでフル回転し、1997年に先発ローテーションに定着。12勝をあげ、13完投を記録するなどエースとして活躍します。

1998年には13勝をあげてリーグ最多勝に輝きますが、チームは日本プロ野球ワースト記録となる17連敗を喫し、連敗ストッパーとして奮闘するも止められずにマウンドに崩れた「七夕の悲劇」で他チームのファンにもその名を知られるようになります。

1997年から2001年まで5年連続で2桁勝利を記録し、21世紀最初の勝利投手にも輝きました。しかし右肩に違和感があるまま投げ続けたこともあり、2001年シーズンの後半になりマウンドから遠ざかります。

2004年に3年ぶりの勝ち星をあげましたが、オフの契約更改にて自ら提示額よりに更なる減額を申し出ます。2005年にはチーム10年ぶりのAクラス確定となる勝利をあげますが、それが最後の勝ち星となり、2007年シーズンを限りに引退します。

プロ野球通算13年間で、76勝、1セーブ、防御率3.43。最多勝利1回、最高勝率1回。

引退後は解説者、北海道日本ハムファイターズコーチなどで活躍しています。

 

私が選ぶ、黒木知宏の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「54番はジョニーですので、よろしくお願いします」

プロ初勝利のインタビューで、愛称となる「ジョニー」という名を自ら告げました。この「ジョニー」という呼び名は、かつてスポーツ刈りにしていた頃、演歌歌手の山本譲二さんに似ていて、後輩が「ジョージじゃなくて、ジョニーにしましょう」と言い出したのがきっかけだそうです。

その結果、多くのプロ野球ファンは黒木知宏というフルネーム以上に、「ジョニー黒木」という名前の方に馴染みがあると思います。

ドラフト逆指名2位という順位のわりに、54番という大きな背番号だったため、最初は落胆したという黒木ですが、彼の前にその番号を背負っていた石田雅彦に「俺が54を温めておいたよ。だからだからジョニーはきっと活躍できる」と言われ、その気になったそうです。

意気に感じるタイプの黒木にとって、54番は彼のこだわりとなり、エースと呼ばれるようになって球団から18番を打診された時もそれを断りました石田の思いが黒木の心に火をつけ、「54」は彼自身の名刺代わりになったのです。

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【名言語録その2】

「そんなに簡単にリベンジされてたまるかと思いましたよ。結果は見事にリベンジされてしまったんですが」

リベンジされた相手はルーキーだった松坂大輔です。最初の投げ合いは黒木が勝ち、松坂が試合後「同じ相手に二度負けることはできないのでリベンジします」と発言したのを受けての対戦でした。

黒木といえば一塁走者が盗塁を狙うように動くと「ウロチョロするな、このボケ!」と怒鳴ったり、バッターに対して鋭い視線を向け、マウンド上で「ぶっ殺してやる」とつぶやくので知られています。中村紀洋に言わせると「あいつは熱いというより暑苦しい」のだそうです。

彼が全国的に知られるようになったのは、1998年7月7日、後に「七夕の悲劇といわれる試合でしょう。その日までマリーンズはプロ野球ワーストとなる16連敗を喫し、黒木はそれを止めるべく力投。連敗阻止まであと1アウトにまで迫り、打者プリアムを2ストライクまで追い込みました。しかし139球目は無情にもグリーンスタジアム神戸のフェンスを越え、黒木はそのままマウンドに崩れ落ちました。

マンガでは見たことがある場面ですが、実際にプロの投手がマウンドに泣き崩れるシーンを目にしたのはこの時が唯一だと思います。その後、悲劇のヒーロー視された黒木ですが、小宮山悟に「あそこでマウンドうずくまっちゃいかん。あそこでマウンドを降りちゃいかん」と諭されたそうです。

エースだった小宮山の言葉があったからこそ、黒木は奮起し、悲劇のエースから本物のエースになったのではないでしょうか。魂に火をつける言葉が、黒木の努力のエネルギーになっていったのです。

【名言語録その3】

「選手としてはやめるかもしれないけど、野球人としては生き続けるわけですから」

引退後の言葉です。黒木は弱い時期のチームを支え続けながら、右肩を痛め、2001年7月にマウンドから姿を消します。復活を目指し続け、再び1軍のマウンドに立つのは3年後。しかしかつての光を取り戻すことはありませんでした。

その黒木が最後の輝きを見せたのが2005年8月28日、チーム10年ぶりのAクラス入りがかかった試合、バレンタイン監督は先発にこの年初先発となる黒木を指名。7回を無失点に抑えて、見事に勝利を引き寄せました。

「やっぱり1軍のヒリヒリするような空気感はいい。あの緊張感のおかげで1軍にいる実感を味わえた」

熱い男が見せたエースらしい最後の輝きでした。

引退後、北海道日本ハムファイターズのコーチとして大谷翔平を見守った黒木。キャンプで大谷のボールを少しだけ受けたそうです。

「新調したミットってカチカチじゃないですか。本当に嘘じゃないですけど5、6球受けただけで、ふにゃっとなるくらいすごい衝撃があって、これは本物だと思いましたね」

黒木の熱いエースの魂は、確実に大谷の中にも受け継がれているのではないでしょうか。

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名言からの学び

・こだわりがその人の名刺代わりになる

・燃える魂こそが最大のエネルギーである

・記憶に残る思いは後に受け継がれる

 

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