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金村義明の凄さが分かる名言・語録集!野球解説者でもありタレントの顔を持つ男の伝説エピソードから人生哲学まで


甲子園の優勝投手といえば、当然、プロでも投手としての成功を期待されますが、世界のホームラン王である王貞治は春の選抜優勝投手ながら、打者に転身し大成功を収めました。愛甲猛は夏の選手権大会で優秀投手となりますが、プロでは打者に転向し1142安打を記録します。同じように夏の選手権大会で優秀投手となりながらも、打者として通算127本塁打を記録したのが金村義明です。

甲子園優勝時は夏の暑さの中、1回戦から決勝までの計6試合をエースとしてひとりで投げ抜き、4番打者として打率.545、2本塁打という活躍で、チームを牽引した金村。しかし甲子園で投げ合った槙原寛己のボールの威力を見て、投手としての限界を感じ、プロでは打者に転向しました。

近鉄バファローズでは「いてまえ打線」の主力のひとりとして活躍し、昭和の野球人らしい豪放で野武士のような雰囲気を醸し出す金村。そのキャラクターは引退後にタレントとしても愛され、さまざまなバラエティ番組で活躍しています。

今回は甲子園の優勝投手であり、野球解説者やタレントの顔を持つ金村義明の凄さが分かる名言や語録を紐解き、その伝説エピソードから人生哲学にまで迫ります。

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金村義明について

まずは金村義明の経歴を追ってみます。

1963年8月27日生まれ、兵庫県宝塚市出身。報徳学園中学校から高校へと進み、高校3年の時にエースで4番を打ち、甲子園に春夏連続で出場。夏の選手権大会では6試合をひとりで投げ抜いてチームを優勝に導きますが、地方予選を合わせると全13試合に完投勝利しています。甲子園での対戦相手には荒木大輔、藤本修二、工藤公康とプロでも活躍する投手たちがそろっていました。

1981年のドラフトで近鉄バファローズと阪急ブレーブス(共に現オリックスバファローズ)から1位指名を受け、近鉄が交渉権を得て入団。ルーキーイヤーにフレッシュオールスターでMVPになり、プロ初ヒットも放ちますが、1軍に定着したのは1986年でした。この年、サードのレギュラーとして定着し、23本塁打を記録します。1988年の終盤に骨折し、伝説となる10月19日の対ロッテのダブルヘッダーは記者席で観戦となりましたが、翌1989年にはリーグ優勝に貢献。近鉄では6度の2桁本塁打を記録しました。

その後は故障や若手の育成や台頭もあり、出場機会を減らし、1994年オフにFAを宣言、中日ドラゴンズへ移籍します。しかし故障もあり、なかなか結果が出ずに、1997年のシーズン中に西武ライオンズへトレードとなりました。ライオンズでは代打やDHで活躍し、1999年限りで引退。

プロ通算18年間で939安打、127本塁打、打率.258。

引退後は解説者やテレビタレントとしても活躍しています。

 

私が選ぶ、金村義明の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「プロになりたくて、人生賭けてやっていましたから」

金村は子どもの頃、中学を出たら働けと言われたそうです。高度経済成長期の裕福ではない家庭では、あるあるの話です。しかし野球をしたくて強豪の私立学校に行きたかった金村は、泣きながら母親に土下座し、他人の3倍努力することを約束して、報徳学園への入学を認めてもらいました。学費を捻出するため母親は内職やパートで頑張ってくれたそうです。

そんな経緯から、必死で野球に取り組んだ金村は、高校3年で甲子園出場を手にしますが、春の選抜大会では1回戦で槙原寛己との投げ合いの末に大府高校に敗れ、OBからは「お前のせいで負けた」と責められたそうです。それを見返してやろうと反骨心の強い金村は、夏の予選では監督が他の投手を投げさせようとしても「嫌や」と食い下がり、甲子園優勝までひとりで全試合を投げ抜きました。

予選から甲子園決勝までの13試合連続完投勝ちは、まさに逆境と反骨心から生まれた意地が作り上げた記録なのでしょう。

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【名言語録その2】

「槙原との対戦がなかったら、プロでも投手で勝負していたかもしれません」

高校時代、春の選抜大会で槙原と対戦した金村ですが、甲子園出場を勝ち取り、周囲からも高い評価をされはじめ、やや過信と慢心を抱いていた時期でした。そして1回戦で槙原と対戦し「上には上がいる」と痛感しました。槙原の快速球に甲子園球場が一瞬静まり返ったのだそうです。

槙原寛己の凄さがわかる名言・語録集!ミスターパーフェクトの伝説エピソードから人生哲学まで

 

槙原との出会いによって、金村は投手としてではなく打者としてプロに挑むことになるのですが、実はプロでも投手として登板したことがあります。1989年3月16日のオープン戦、近鉄対ヤクルトのカードで9回2死から、金村はマウンドに上がりました。仰木彬監督によるファンサービスのひとつでしたが、ヤクルトの関根潤三監督からは「君、なめてるの?」と言われたそうです。

本人によれば、当時はまだ特別な呼称はなかった、今で言うところのカットボールを投げ、打たせてアウトを稼いでいたそうです。打者の手許で小さく鋭く変化するボールですから、強振してくるパワーヒッターが多かったパリーグならば、投手としてもある程度は通用したかもしれません。

そんな「IF」はともかくとして、地方から全国という大きな舞台に出た時、より大きな存在を知り、素直にそれを受け止められるのも、大事な才能だろうと思います。

 

【名言語録その3】

「近鉄の先輩はほとんどパンチパーマの、訳の分からん人ばっかり。ろくに口もきいてくれませんから、もう地獄でした」

これはそのままストレートに受け取るのではなく、事実上消滅した近鉄バファローズという球団へ寄せる愛情と、今は無き時代を懐かしむ言葉だろうと思います。近鉄時代のこぼれ話をバラエティ番組でよく話題にする金村ですが、「なんだかんだ言っても近鉄という球団は憎めないんですけど」と語っています。

近鉄球団ばかりでなく、チームが使用していた藤井寺球場と日生球場も今は無く、2020年に岩隈久志が引退し、近藤一樹も自由契約となり、近鉄出身の選手は坂口智隆ひとりだけになりそうな気配です。かつて関西には阪神タイガースの他に、阪急ブレーブス、南海ホークス、そして近鉄バファローズと4球団存在しましたが、現在はタイガースとオリックスバファローズの2球団のみ。球場の方も藤井寺球場と日生球場だけでなく、大阪球場、西宮球場も無くなってしまいました。

時代と共に球団は移り変わるし、金村いわく「フランチャイズ球場の汚さにかけてはワースト3のうち、2つを持っていました」というほど老朽化した球場が、新しくなるのは悪い事ではないと思います。しかし2004年に起きた球団再編問題で、近鉄から楽天へ親会社が代わるのではなく、楽天を新規参入とし、近鉄とオリックスを合併させ、あえて近鉄という球団を消滅させた経緯は、いまだにオリックスと楽天の見えない重しになっている気がします。

これからも貴重な球史のひとつとして、金村には近鉄という球団について、たくさん話をして欲しいなと思います。

 

名言からの学び

・逆境が反骨心と意地を育む。

・自分より大きなものを認められるのも大事な才能である。

・どんな事実も語り継がれるべきである。

 

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