池山隆寛の凄さが分かる名言・語録集!ヤクルト一筋ブンブン丸の伝説エピソードから人生哲学まで
1980年代に入るまで、遊撃手は守備が上手いことが最優先で、攻撃ではバントなどの小技ができる選手が条件でした。しかし1980年代になりホームラン王に輝いた宇野勝やパリーグ初の1億円プレーヤーとなった石毛宏典など、長打力を武器とする遊撃手が現れるようになりました。その1人が池山隆寛です。
池山といえばバットをブンブン振り回すフルスイングぶりから、「ブンブン丸」との愛称で呼ばれました。三振も多く、時に振り過ぎを指摘されることもありましたが、その長打力はチームの大きな武器となり、通算304本塁打は歴代遊撃手の中で、宇野勝の338本に次ぐ第2位の記録です。
引退後はコーチとして恩師野村克也のもとで働き、野村イズムを継承しながらも、わかりやすい指導で後進を育てています。
今回はブンブン丸こと池山隆寛の凄さが分かる名言や語録を紐解き、ヤクルト一筋の強打者の伝説エピソードから人生哲学にまで迫ります。
池山隆寛について
まずは池山隆寛の経歴を追ってみます。
1965年12月17日生まれ、兵庫県尼崎市出身。尼崎高校では夏の選手権大会で甲子園に出場。ポジションは三塁手でした。1983年のドラフト2位で3球団競合の末、ヤクルトスワローズが指名権を獲得し、入団します。
ルーキーイヤーの1984年に初の1軍昇格を果たし、翌1985年に初安打を記録。1986年には初本塁打を放ちます。1987年、遊撃手のレギュラーポジションを獲得。この年から6年連続で100三振を越えるものの、そのフルスイング打法で1988年から5年連続で30本塁打以上を記録。1992年のチーム日本一、93年のセリーグ連覇に貢献します。
しかし1993年には受けた頭部死球、1996年にはアキレス腱を痛め、更には宮本慎也や岩村明憲らの台頭で遊撃手から3塁手、そして2塁手へとポジションを変え、代打に回ることも多くなりました。2002年に引退しますが、最終打席はフルスイングの末、三振でした。
現役通算19年間で1521安打、304本塁打、108盗塁、通算打率.262。ベストナイン5回、ゴールデングラブ賞1回。
引退後は解説者を務めていましたが、若い指導者の育成を考えていた野村克也が2006年に東北楽天ゴールデンイーグルスの打撃コーチに招聘。2011年には古巣のスワローズに打撃コーチとして復帰。その後、イーグルスでチーフコーチや二軍監督、再びスワローズで二軍監督と両チームを行き来しています。
私が選ぶ、池山隆寛の凄さがわかる名言・語録集
【名言語録その1】
「本当に自由に打たせてもらった」
野村チルドレンとして名前をあげられることが多い池山ですが、最初の監督は関根潤三でした。後にブンブン丸とあだ名されるスイングは、関根が池山を自由に打たせたからこそ生まれました。
フルスイングゆえに三振も多かった池山について、関根は「だって三振するんだからしょうがないじゃん。そんなの怒ってもしょうがないもんね。野球には三振もあればエラーもあるんだから」と答えています。
更に「練習したからといってすぐにうまくなるもんじゃないでしょ。だから一緒に頑張っただけ。監督と選手じゃねぇんだよ。一緒に野球をやっていたんだよ」とも話しています。
スイングは豪快な池山ですが、関根によれば「本当に神経が細かい」のだそうです。「神経が細かいから必死に頑張る」「本当に素直ないいヤツ」とも言っています。
最初に理解のある上司に恵まれたことは、池山にとって幸いだったのだと思います。
【名言語録その2】
「グラウンドに出たら、やることはやれ、という感じかな」
関根の後の監督は名将野村克也でした。「関根監督の方がやりやすかった」と話したこともある池山ですが、野村と野球をやった経験は大きいものがあったようです。
最初は反発していた池山ですが、三振を減らすために、大きく足を上げるのを禁止され、コンパクトなスイングをもとめられることでシーズン打率3割を記録し、チームの優勝も経験するなど、成功体験を積み上げることで求められることに対する葛藤が減っていったそうです。
そして自ら直訴して、チームのレジェンドであった若松勉がつけていた背番号1をつけ、チームの顔としての役割を担いました。その背番号はその後も、岩村明憲、青木宣親、山田哲人といった、チームのスタープレーヤーが背負うものとなっています。
そんな池山にとって最も印象深いホームランは1992年の日本シリーズ、対西武ライオンズ第5戦、延長10回に潮崎哲也から放った決勝ホームランだそうです。
それはフルスイングと読みが一致した、関根と野村という好対照な二人の監督に育てられた結果が結実した瞬間だったと言えるかもしれません。
【名言語録その3】
「今になって、野村野球を一番知ってるのは僕ちゃうかなって自負もあるよ」
引退後、東北楽天ゴールデンイーグルスの監督になっていた野村のもとで、コーチを務めた池山。野村とは選手として9年間、コーチとして4年間つきあうことになりますが、「選手としての9年間よりも、楽天のコーチとして4年間のほうが濃かったような気はするね」と語っています。
試合が終わった後には、野村とコーチ陣でミーティングがあったのですが、試合に負けるとそれが1時間半くらいかかりました。岩手県の盛岡市でナイトゲームをした後に、本拠地の仙台市に戻ってからミーティングをし、深夜1時までかかったこともあったそうです。
「野村さんの野球は準備野球。野球は確率のスポーツだから、たとえば打撃なら来る確率の高い球をいかに待てるか。それに向けて日頃からいかに準備ができるか」
今はそんな指導哲学を受け継いだ池山ですが、現役時代は野村に何を言われても「ピンと来てなかった」のだそうです。
「コーチを経験して、ようやくわかるようになった」という言葉は先人がなぜ口うるさく語るのかを教えてくれます。
「野村の教えは確実に僕の指導の引き出しになってるよね」
イーグルスとスワローズで2軍監督を勤めている池山だけに、いつか1軍の監督として、更に野村野球を進歩させた野球哲学で、活躍してくれるのを期待しましょう。
名言からの学び
・上司の理解が部下を成長させる鍵となる
・成功体験が克己につながる
・経験や立場を重ねないとわからないこともある
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