カルロス・ポンセの凄さが分かる名言・語録集!マリオが愛称のスラッガーの伝説エピソードから努力論まで
今や世界中で人気のゲームコンテンツである「スーパーマリオ」シリーズ。その第一作目の登場は1985年9月のことでした。あっという間に人気となり、全世界で4000万本を越え、ファミコンブームの火付け役になった「スーパーマリオ」。1986年、まさにリアル・マリオとも呼ぶべき助っ人が来日します。カルロス・ポンセです。
トレードマークの髭はもちろん、その眉の濃さなど、独特の風貌がとてもマリオに似ていることから、一躍人気者になったポンセ。所属した横浜大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)は平成最初の最下位になるなど低迷中でしたが、スーパーカートリオと共に野球ファンの話題をさらいました。
もちろんその活躍もマリオに負けず、確実性の高い打撃と、勝負強さで打点王を2度獲得し、本塁打王との2冠に輝くなど、チームの主軸として印象に残る活躍を見せてくれました。
今回は「スーパーマリオ」から抜け出したような風貌から、マリオが愛称のカルロス・ポンセの凄さが分かる名言や語録を紐解き、その伝説エピソードから努力論にまで迫ります。
カルロス・ポンセについて
まずはカルロス・ポンセの経歴を追ってみます。
本名カルロス・アントニオ・ポンセ・ディアス、1959年2月7日生まれ、プエルトリコ自治連邦区リオピエドラス出身。1982年にアマチュアFAでミルウォーキー・ブルワーズと契約。アドバンスルーキー級ビュートでデビューし、1984年には3Aに昇格。1985年、メジャーデビューを果たし、21試合に出場しました。
1986年にメジャーのロースター40人枠から外れ、横浜大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)と契約。この年は打率.322で105打点という活躍を見せます。3冠王をとったランディ・バースと打点はわずか4打点差でした。翌1987年はリーグ最多安打を放ち、打点王に輝きます。1988年、更に打撃に磨きがかかり、本塁打王と打点王を手にしました。しかし1989年には視力に問題を抱え、メガネをかけるなどしましたが、思うような打撃が出来ず、1990年は15試合の出場にとどまり、このシーズン限りで引退します。
メジャーリーグ通算1年間で、10安打、1本塁打、打率.161。
日本プロ野球通算5年間で、601安打、119本塁打、44盗塁、打率.296。本塁打王1回、打点王2回、最多安打1回、ベストナイン2回。
引退後はトラック運転手や野球スクール主催、フロリダ・マーリンズのスカウト、台湾プロ野球の味全ドラゴンズの打撃コーチなどを経験し、日本向けのYoutubeチャンネルも開設しています。
私が選ぶ、カルロス・ポンセの凄さがわかる名言・語録集
【名言語録その1】
「球団からバンクーバー(3A)に行くか、日本に行くか、二者択一を迫られたんだ。でも即決したよ。日本に決まっているだろう」
1985年にメジャー昇格を果たしたポンセですが、翌年にはメジャーのロースター40人枠から外れてしまいました。当時のブルワーズにはセシル・クーパー、テッド・シモンズ、ロビン・ヨーントといずれもメジャーで2000本以上の安打を残したバッターがそろっており、ポンセが入り込む隙はありませんでした。
3Aのチームに行くか、日本に行くかを迫られ、彼は迷わず日本行きを選びました。実はその2年ほど前から、キャンプのたびにひとりの日本人がポンセの元を訪れていました。それはホエールズのスカウト牛込惟浩でした。ポンセは自分に注目し続けてくれたことや、2年契約という期待と信頼に応える形で日本にやってきたのです。
その発想の柔軟さはプエルトリコではナショナルチームのメンバーとして国際大会に出場し、アメリカ本土の大学から奨学金をもらって進学したものの、高いレベルの競争に挫折し、野球から離れた時期があったからかもしれません。その時もあるスカウトから「ファーストをやったらどうだい」と声をかけられ、苦手な守備よりも打撃でアピールすると腹をくくった経験が影響しているのだと思います。
必要ならばスカウトの言葉でも参考にする。その姿勢が彼の野球人生を切り拓く縁に繋がったのです。
【名言語録その2】
「今のメジャーリーグのアンパイアを見てみろ。あれだってひどいもんだろう」
ポンセが来日した当時は、助っ人選手に対するストライクゾーンが日本人の選手より広いと、まことしやかに噂されることがありました。おそらくは当時のメジャーが外角は甘く、内角には厳しい、低めには甘く、高めには厳しい判定が多く、結果的にストライクゾーンが狭くなっていたこと。またアンパイアの個性がボール判定にも色濃く出やすいことから、そういう印象を与えていたのだと思います。そもそも日本人よりも背が高い選手が多い分、ストライクゾーンは広くなりますし、特に外国人選手に厳しいというわけではなかった筈です。
更にストライクゾーンを広く使う意識が高いのが日本の野球の特徴であり、打てない助っ人の言い訳という面もあっただろうと思います。しかしポンセはまったく気にしなかったし、実際に結果も出しました。
来日初年度から十分な結果を残したポンセですが、彼の中にはシュート・シンカー系のボールに詰まらされた印象が残っていました。そのため翌年はバットを2センチほど短くし、次の年にはグリップの位置を上げ、更に踏み出すステップをすり足にするなど、結果が出ていても課題に対して工夫し、変化を恐れませんでした。
「結局、日本でどれだけやるつもりがあるのかだよ」とポンセは言います。「少しでも日本の野球を見下す選手は活躍できないと思う」
かつて「野球」と「ベースボール」は別物だと言った時代もありましたが、数多くの日本人プレーヤーがメジャーリーグで活躍している今、まさに「日本の野球を見下す」助っ人では活躍できないだろうと思えます。
【名言語録その3】
「このヒゲは誰にも触らせないよ。ヒゲは僕の象徴だから」
テレビ東京系「YOUは何しに日本へ?」という番組で、偶然来日したポンセにインタビューした際に、変わらずに生やしている「マリオ」に似たヒゲについてのやりとりで、発した言葉です。
ホエールズ時代の「バモス、ポンセ」で始まる応援歌については「あのリズムはもともとメキシコの民謡なんだ。僕はプエルトリカン。なんでメキシコのリズムなんだって思ったけどね」と陽気に笑い飛ばすポンセ。チームの思い出として「やっぱりカトウさん(加藤博一)の存在は大きかったよ。何かと声をかけてくれたし、打てなくて落ち込んだ時は相談に乗ってくれた」と話しています。
また日本で印象に残っている選手としては、ホエールズなら高木豊、遠藤一彦の名前をあげています。またメジャーでも活躍できる選手として槇原寛己、吉村禎章、清原和博らを評価していました。
弱かったホエールズについては「個々の能力が高くても、チームが勝つという目標に対するアプローチが、ジャイアンツやカープとは違っていたね。彼らは、何があってもチームの勝利を最優先していた」と目的意識に差があったことを指摘しています。
これからの人生設計については「決して簡単なことではないけど、アカデミーで選手を育て、野球と共に日本語も教えたいと考えています。若い選手を育て、日本の大学や独立リーグなどに送り、日本のドラフトでプロ入りできるような環境を作っていきたいです」と語っています。
日本のドラフト対象の選手ならば、外国人枠とはならないので、育成も含めて、長いスパンで見ることができます。是非ともポンセに学んだ選手が日本のドラフトで選ばれ、活躍する姿を見たいものです。
名言からの学び
・縁とタイミングを逃さない
・変化を恐れず、リスペクトを忘れない
・活躍こそ恩返しである
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