鶴岡一人の凄さが分かる名言・語録集!初代ミスターホークスの伝説エピソードから人生論まで

日本プロ野球で監督の平均在年数は約3.5年だと言われています。在年数が最も長い球団である読売ジャイアンツでも約6.3年。そのためプロ野球通算1000勝以上をあげている監督はわずか13名に過ぎません。そんな中、見事歴代1位に輝くのは通算1773勝の鶴岡一人です。
鶴岡は歴代最多勝監督というだけではなく、300勝以上した監督70人の中で唯一、勝率6割を超えており、リーグ優勝も11回で川上哲治と共にトップに立っています。日本一こそわずかに2回ですが「鶴岡親分」の名は、歴史に残る名将として語り継がれています。
プロ入りから、プレーヤーとして8年間、監督として23年間、南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)一筋であり、まさに「初代ミスターホークス」として、チームに大きな影響を与えました。
今回は歴代最多勝監督であり、初代ミスターホークスと呼ばれた鶴岡一人の凄さが分かる名言や語録を紐解き、その伝説エピソードから人生論にまで迫ります。
鶴岡一人について
まず鶴岡一人の経歴について追ってみます。
1916年7月27日生まれ、広島県呉市出身。小学生の頃から野球を始め、広島県立広島商業学校(現広島県立広島商業高校)に進学し、選抜中等学校野球大会で優勝。特典としてアメリカ遠征にも参加しました。法政大学に進学し、主将も務め、チーム連覇を果たすなど、花形選手として注目されました。1939年に創立したばかりの南海軍(現福岡ソフトバンクホークス)に入団します。
当時は不人気で軽んじられていた職業野球のスターとして、新人にも関わらず主将となり、本塁打王を獲得。女性ファンも含め、人気を集めるようになります。しかし1940年に召集され、陸軍に入隊。6年間従軍し、最終的には中隊長として200名の部下を率いました。1944年に結婚し、婿入りしたことから山本一人と改姓します(1957年に鶴岡に戻す)。
1946年に復員。選手兼監督としてチームに復帰します。この年に戦後初の打点王を獲得。更に戦後初のMVPにも輝きます。その後1949年まで100試合以上に出場し、1948年にもMVPを手にし、1951年には3度目のMVPとなりました。しかし1952年シーズン限りで選手としては引退し、監督に専念することになります。
選手として日本プロ野球通算8年間で、790安打、61本塁打、143盗塁、打率.295。MVP3回、本塁打王1回、打点王1回、ベストナイン1回。
監督として歴代最多勝利をあげている鶴岡ですが、プロ野球が2リーグに分裂する1950年前は4シーズンで2度の優勝をしています。分裂後も9度のリーグ優勝を果たし、2度の日本一に輝いています。23年間の監督生活のうち、Bクラスで終わったのはわずかに2回のみです。
監督として日本プロ野球通算23年間で、1773勝、1リーグ時代の日本一2回、2リーグ後の日本一2回、Aクラス21回。
1968年に契約満了として監督退任。その後は野球解説者や評論家を務めながら、少年野球の国際交流にも尽力しました。監督就任の要請も何度かありましたが引き受けることなく、2000年3月7日、83歳で永眠しました。
私が選ぶ、鶴岡一人の凄さがわかる名言・語録集
【名言語録その1】
「グランドにはゼニが落ちている」
人気プロ野球マンガのひとつ「グラゼニ」。この「グラゼニ」というタイトルは、まさに「グランドにはゼニが落ちている」という鶴岡の言葉から取られたものです。
プロ野球創成期、まだ野球の花形は東京六大学野球であり、プロは人気がなく、見世物扱いでした。後にプロ野球人気を確定させたのは六大学野球のスター長嶋茂雄ですが、その先駆けとして六大学からプロへという道筋を作ったひとりが鶴岡でした。
太平洋戦争後の日本は貧しく、オールスター戦の前身となる東西対抗戦で活躍した選手への賞品が、鮭だったり、子豚だったり、食料が主でした。それでも庶民からすればうらやましく感じた時代です。プロ野球は体ひとつで大きく稼げる仕事でした。
この言葉には、日本人がまだハングリーだった時代、なんとか稼ぐためにむきだしの競争に挑む若者たちの姿を感じると共に、競争を煽りながらもそれを静かに見つめる鶴岡親分の姿が見える気がします。
【名言語録その2】
「結果論は言わない」
鶴岡は解説者時代に三つの誓いを立てたそうです。「結果論を言わない」「批評とは人を励ますことである」「チームの財産である選手を傷つけない」というものです。
野村克也は鶴岡に関して「結果論」で指揮をとると批判しています。当たり前に精神論が通る時代でもあり、鶴岡も精神論を重んじ、結果オーライな面が確かにありました。
しかし選手育成のためにファームを創設し、スカウト制度を整え、専属スコアラーを採用してデータ収集をさせ、複雑なブロックサインを使用する機動力野球を作り上げるなど、鶴岡はきわめて現代的で先進的なことを数多く行っています。
これらの実績を見る限り、鶴岡は精神論の先にしっかりとした理屈を持っていたように感じます。しかし残念ながらまだ選手はそのレベルにはなかったために語られなかった部分があるのだろうと思います。
戦後すぐ、特に関西では野球賭博が盛んでした。選手が買収され、八百長もよくあったと聞きます。鶴岡は警察からその話を聞き、八百長をする選手が投手、セカンド、センターに多いと知り、試合中もそれらのポジションの選手を観察したそうです。怪しい選手は警察と連携して徹底的な行動確認をして、陰で賭博をしている選手や可能性の高い選手をすべて解雇しました。
厳しい措置ですが、後の「黒い霧事件」を見る限り、早い時期に対処できたのは鶴岡の英断だったと思います。
これらの功績について、生前ほとんど語らなかった鶴岡ですが、そこに「結果論は言わない」という信念が感じられます。
【名言語録その3】
「敗残兵ですわね。だから負けると腹が立ってねえ」
鶴岡は23歳から29歳というもっとも野球選手として活躍できたであろう6年間従軍しています。終戦の頃には中隊長として200名の部下を率いた経験は、監督として役立ったかもしれませんが、もし選手としてプレーできていればとも思います。
そもそもプロ入りしたのは、どうせいずれ軍隊にとられるなら「好きなことをやって死のう」と考えていたからで、生き残った「敗残兵」の気持ちが、監督として創成期ホークスの黄金期を築く原動力になっていたのでしょう。
関西のプロ野球チームで始めて、大阪の「御堂筋パレード」を行ったのは、阪神タイガースではなく、1959年の南海ホークスです。セリーグに比べて不人気だったパリーグですが、このパレードには20万人が集まったそうです。
鶴岡の自伝のタイトルは「御堂筋の凱歌」。大阪でホークス一筋に日本最多勝を記録した名将は、「敗残兵」ではなく、勝者としての栄光を手にしたのです。
名言からの学び
・稼いでこそプロである
・歴史こそ結果を語る
・負けっぱなしの人生などない
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