大石大二郎の凄さが分かる名言・語録集!いてまえ打線トップバッターの伝説エピソードから人生哲学まで
「20年間で13回のリーグ最下位」「55年間日本一なし」「10.19ダブルヘッダー」「江夏の21球」「代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームラン」そして「いてまえ打線」など、多くの伝説を残した大阪近鉄バファローズ。いまだにその野武士的な雰囲気を懐かしむファンがいるチームです。その強力な「いてまえ打線」のリードオフマンとして活躍したのが、大石大二郎です。
強打がチームカラーだった近鉄いてまえ打線の中で、小技が使える俊足の一番打者として、チーム史上最多となる通算415盗塁を記録し、一発もある好打者ぶりを発揮した大石。大雑把な野球をしているように見えたチームの中で、守備力でもチームを牽引し、まさにトップバッターらしい選手でした。
引退後は近鉄の後身となるオリックス・バファローズで2年間、監督として指揮しましたが、やはり近鉄のユニフォームが似合うひとりです。
今回は今はなき近鉄バファローズを知る、いてまえ打線のトップバッターだった大石大二郎の凄さが分かる名言や語録を紐解き、その伝説エピソードから人生哲学にまで迫ります。
大石大二郎について
まずは大石大二郎の経歴について追ってみます。
1958年10月20日生まれ、静岡県静岡市出身。中学生になると兄が野球部主将だったこともあり、当初は柔道部に入部。6月になって野球部に入りました。静岡商業高等学校では1年の夏からベンチ入りし、夏の選手権大会では甲子園でもベンチ入りします。2年では春の選抜大会にレギュラーとして甲子園の土を踏みます。卒業後は亜細亜大学に進学。3年の春季リーグ戦で東都リーグ記録となる盗塁数を記録し、ベストナインにも二度選出され、1980年のドラフト会議で近鉄バファローズ(現オリックス・バファローズ)に2位で指名されて入団します。
ルーキーイヤーから1軍出場を果たし、翌1982年には二塁手としてレギュラーを獲得。新人王とダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)を受賞します。1983年は福本豊が13年連続で獲得していた盗塁王のタイトルを奪取。1984年にも盗塁王を取ります。1985年には左ひざの靭帯を損傷しますが、翌1986年は全試合フルイニング出場を果たし、1987年に再び盗塁王となります。1989年のリーグ優勝に貢献し、その後も活躍を続け、1993年に4度目となる盗塁王に輝きます。1997年に目標としていた「40歳まで現役」の一歩前で引退。
日本プロ野球通算17年間で、1824安打、148本塁打、415盗塁、打率.274。新人王、盗塁王4回、ベストナイン3回、ダイヤモンドグラブ賞3回。通算415盗塁は史上歴代7位。
引退後は野球解説者、オリックスのコーチを経て、2008年から2009年まで監督を務めました。
監督通算2年間で、110勝、Aクラス1回。
その後は福岡ソフトバンクホークスのコーチ、BCLの新潟アルビレックスのコーチ、社会人チームのジェイプロジェクトの監督を歴任。また障がい者福祉の事業所を立ち上げ、自らもキッチンカーで活動するなどしています。
私が選ぶ、大石大二郎の凄さがわかる名言・語録集
【名言語録その1】
「近鉄だけが体の小さかった私を評価してくれてプロの世界に入りました」
身長166㎝の大石。プロ野球選手としてはもちろん、一般人と比べても体格に恵まれているとはいえませんでした。同じ1980年のドラフトでプロになった主な野手を見てみると、駒田徳広は191㎝、愛甲猛が181cm、石毛宏典が180cm、高木豊173㎝です。
大石はプロ野球の歴史を見ても、公称160センチ代のプロ野球選手では福本豊、若松勉、吉田義男に次ぐ安打数を残し、本塁打は若松、福本に次ぐ第3位の本数を記録しました。
パワーを養ったのは、まだプロ野球ではその効果が疑問視されていたウェイトトレーニングにいち早く取り組んだことです。近鉄のコンディショニングコーチだった立花龍司は、大石が肩を故障した際に、皆が胡散臭がっていたトレーニングを、すぐに受け入れて回復したことが、他の選手を納得させるものになったと話しています。
近鉄の強力ないてまえ打線の陰には、このどのチームよりも早く取り組んだウェートトレーニングがあったからだと評する人もいます。それには大石の先見性が大きく貢献していたと言えそうです。
【名言語録その2】
「仰木さんから非情さや厳しさを感じた記憶はないですね。僕が迷っている時に勇気を与えてくれる人でした」
名将仰木彬は、やはり名将とうたわれた三原脩が監督を務めていた1970年にコーチとして近鉄に加わり、1987年に監督となって1992年まで務めました。近鉄は2004年に消滅しますが、球団として55年間存続した間の、実に22年間もチームを支えた人物でもあります。
大石はプロ2年目の1982年、開幕スタメンに抜擢されますが、その後は5試合で23打席ノーヒットに終わります。スタメン落ちはもちろん2軍での再調整もあり得る状況でしたが、当時住んでいた球団寮に、大石宛で電話がありました。その主は仰木監督でした。
自分を見捨てない監督の言葉に、奮起し、大石は見事に新人賞を獲得しました。仰木という良き指導者に恵まれたことは、選手としての大石だけでなく、その後に指導者としての大石にとって大きな学びになったのだと思います。
引退後はNPBの監督やコーチを務めただけではなく、独立リーグや社会人チームの指導者も歴任した大石。そんな中、特に社会人チームでは「選手を磨くことの難しさ」についてもっとも戸惑ったそうです。
「ようやく育ってきたかなと思った選手もある程度の結果が出ないと自ら辞めていく」という姿は、それまで球団側に選択権があったプロとは大きく違って感じたようです。
「将来を考えて早めに見切りをつけるということなのでしょうか。投打の中心選手とか、重点起用を始めた選手が社業に専念したり、転職したりします」
アマチュアにとっては当たり前の感覚だと思いますが、プロだった人にとってそれは異質だったようです。
しかしプロもアマも共通していることはあります。それが大石いわく「根気」です。それは打てない大石を仰木が使い続けた姿と重なるように思います。
【名言語録その3】
「打ってしまった、って感じです」
大石といえば、1984年のオールスターゲーム第3戦で、江川卓が8者連続三振を奪い、9人目の打者となったシーンが有名です。
オールスター記録は江夏豊の9者連続であり、その偉大な記録に並ぶかどうかという場面、9人目の大石は2球で2ストライクに追い込まれます。
その時、江川は「9個は取れると思ってますから。もう確定なんですよ。大石さんには申し訳ないんですけど、9個は確定なんです」と自信満々でした。そしてタイ記録の9個ではなく、新記録となる10個目を狙う方法として、振り逃げをさせれば可能だということを考えたそうです。
そんな色気もありつつ、10個目を狙うべきか「迷いながら投げた1球」のカーブを、大石はバットに当て、セカンドゴロ。9者連続三振は潰えました。
この時の大石のバッティングについて、三振を嫌がって当てにいった、という論調もありましたが「9人目だから三振しちゃいけないという考えはなかった」そうです。本人いわく「真っすぐ待ちでカーブに反応して」「打ってしまった」という打席でした。
その当時は交流戦もなく、パリーグの選手たちは噂の江川の快速球を打ち崩してやろうと、目いっぱいフルスイングをしていました。小兵だからと大石が当てにいくなど、選手たちもファンも許す雰囲気ではないのを大石も感じていたはずです。
すべては怪物江川の迷いと、大石の一流の反応力がもたらした結果でした。
名言からの学び
・先見性はチャレンジした中に生まれてくる
・どんな才能も根気強く育てなければ芽吹かない
・小さな綻びが結果を変える
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