鶴岡慎也の凄さが分かる名言・語録集!日本ハム屈指のムードメーカーの伝説エピソードから努力論まで
有名なアメリカの雑誌である「ニューズウィーク」が2024年5月に「最高の日本人選手トップ10」を発表しました。1位となったのはもちろん大谷翔平です。続いて王貞治、イチロー、野村克也といったレジェンドに続き、ランク入りしたのはダルビッシュ有です。この大谷、ダルビッシュという2人のスーパースターとバッテリーを組んだ捕手が鶴岡慎也です。
ルーキー大谷の初勝利をリードしただけでなく、逆転本塁打でも援護した鶴岡。ダルビッシュとは115試合でバッテリーを組み、70勝をあげています。それはダルビッシュが日本で記録した92勝のうち、実に76パーセントを占めています。
2023年のワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では、栗山英樹監督からの要請もあり、すでに現役を引退していたにも関わらず、ブルペン捕手として再び大谷とダルビッシュのボールを受け、チームの世界一に貢献しました。
今回は二人のスーパースターと強く結ばれた捕手であり、日本ハム屈指のムードメーカーだった鶴岡慎也の凄さが分かる名言や語録を紐解き、その伝説エピソードから努力論にまで迫ります。
鶴岡慎也について
まずは鶴岡慎也の経歴を追ってみます。
1981年4月11日生まれ、鹿児島県肝属郡高山町(現肝付町)出身。小学生の頃はソフトボールのチームに所属し、中学時代にボーイズリーグで硬式野球を始め、捕手として全国大会で準優勝します。樟南高校では2年春の選抜大会、3年夏の選手権大会で甲子園に出場。高校日米親善大会の日本選抜チームのメンバーにも選ばれます。卒業後は三菱重工横浜に入り、2001年に日本ハムファイターズ(現北海道日本ハムファイターズ)の入団テストを受けるも不合格。翌2002年にもテストを受けて合格し、同年のドラフト会議でファイターズに8巡目指名されて入団します。
入団3年目となる2005年に初の一軍昇格を果たし、初安打も記録。2006年には開幕1軍を勝ち取り、日本一を経験します。その後は打力不足もあり、高橋信二、大野奨太との併用という形ながらも、主にエースであるダルビッシュ有とバッテリーを組むなど、チームの信頼を得て行きます。2013年には大谷翔平の初勝利をリードと本塁打でアシストしますが、シーズン終了後にFA権を行使し、福岡ソフトバンクホークスに移籍します。
ホークスでは細川亨、高谷裕亮、甲斐拓也らとのポジション争いをしますが、2017年シーズン後に再びFAを宣言し、古巣であるファイターズへ復帰を果たします。2019年には兼任コーチを務め、2021年シーズン限りで引退。
日本プロ野球通算17年間で、646安打、20本塁打、打率.238。ベストナイン1回、ゴールデングラブ賞1回。
引退後は野球解説者、評論家。2023年のWBCではブルペン捕手を務め、裏方として日本チームの世界一に貢献しました。
私が選ぶ、鶴岡慎也の凄さがわかる名言・語録集
【名言語録その1】
「品格があるなということを感じました」
この言葉は、今や世界の野球界を変えたと言っていい大谷翔平とはじめて会った時に、鶴岡が抱いた印象です。
大谷の父親は鶴岡と同じ三菱重工横浜の野球部に所属していました。在籍期間は重なってはいませんが、大谷はそれを知っていて、鶴岡のもとに挨拶に来たそうです。その際の言葉遣いや態度から「いい躾をされて育ってきたんだな、品格があるな」と感じたのだといいます。
2023年のWBCにブルペン捕手として参加した際、鶴岡は大谷との再会について悩みがあったそうです。今や世界一の野球選手となった大谷に対し、10年前と同じように先輩面して軽々しく接していいのかと頭を悩ませていたのです。
しかし大谷にはまったく以前と変わらず「ツルさーん、お久しぶりです」と、飾らずに打ち解けた雰囲気で現れました。
もちろん大谷の人柄もあるでしょうが、鶴岡の捕手としての献身や、いかに信頼関係を築きあげてきたのかがわかるエピソードです。
また大谷と鶴岡に関するエピソードとして、交流戦で中日ドラゴンズの和田一浩と対戦した際、大谷はまっすぐがすっぽ抜け、変化球は引っかけて乱調でした。和田に当ててはまずいと思った鶴岡は、大谷にデッドボールの可能性が低く、よりストライクになる確率が高いスライダーを要求し、四球を出しました。すると和田は鶴岡に「ツル、もっとストレートを投げさせなきゃ、ダメだよ」と言ってきたそうです。
これもまた大谷という才能を育てるため、同時に鶴岡という捕手への課題として、野球界の先輩による指摘だったのだろうと思います。個々の関係性だけでなく、多くの先人が後輩たちを育てる世界でもあるのだと痛感します。
【名言語録その2】
「このピッチャーと組ませてもらえなくなったら、プロ野球で生きていけない。そんなプレッシャーがありましたね」
「このピッチャー」というのはダルビッシュ有のことです。ダルビッシュの専属捕手と呼ばれた時期もあり、この二人のバッテリーは通算7年間に70勝をあげています。
鶴岡はプロで17年間40歳までプレーできたのは「ダルビッシュのおかげ」だと話しています。「野球のレベルはダルビッシュが何倍も上だったので、とにかくついていくのに必死でした」と語る鶴岡。「145キロのフォークや思いっきり曲がるスライダーを止めるのは大変」な上に、器用なダルビッシュは「試合中に変化を加えたりする」のだそうです。
ダルビッシュのスライダーの凄さがわかる試合が2009年にありました。対読売ジャイアンツ戦で鶴岡はなんと1試合で4回も後逸するのですが、それはすべてスライダーでした。
更にダルビッシュは自分の癖が盗まれるとか、セカンドからサインをのぞかれるいったことを嫌い、試合中に何度もサインを変えることもあったそうです。そのサインも球種が多いため、指を止めるとか動かすなどで、指の数以上の球種のサインを出していました。
引退の際にはダルビッシュな対して「彼は歳こそ5つ下ですが、心技体、すべてにおいて僕を成長させてくれました」という言葉を贈り、感謝を表した鶴岡。ダルビッシュはそんな鶴岡に「どこでどのタイミングで泣かしにくるんですか」とメッセージを返しました。
どんなに優れた選手であれ、野球はひとりでは勝てないと、改めて痛感させられます。
【名言語録その3】
「運をつかめるチャンスがどこで回ってくるかわからない。つかむ準備は365日24時間しておかないとチャンスが来ていることすら気付けない」
「僕は運があったと思います」と言う鶴岡。彼曰く「ドラフトで指名されるのも、その後長くやれるのも運」だそうです。ただしそれを「つかむ準備は365日24時間」しておかなければならないし、その前提として「常に野球のことを考えて練習を続けることが大事」だと話しています。
高校生の時にもドラフトにかかる可能性が伝えられたものの指名漏れ。同じ鹿児島県の高校生では川崎宗則が福岡ダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)に指名されましたが、自分の方が高校時代の成績は上なので、とても悔しい思いをしたそうです。
社会人2年目に野球部はクラブチームとなり、午後3時まで海外用のゴミ焼却ボイラーを作る向上で働きながら野球を続けます。
更にプロ入りしても「入ったら横一線と言われるけど、それは絶対にない」と断言しています。「ドラフト1位は大事に育てられますけど、自分のドラフト8位という立場を理解していました」という言葉は、厳しいプロ世界の現実の姿でしょう。
しかしドラフト8位から17年間のプロ生活を続けられたことは、ドラフト下位や育成契約の選手たちへの大きなエールになっていると思います。
名言からの学び
・人は人によって育てられる
・切磋琢磨こそレベルアップの近道である
・チャンスをつかむために決して準備は怠らない
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