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ミッキー・マントルの凄さが分かる名言・語録集!史上最高スイッチヒッターの伝説エピソードから努力論まで

きっと野球好きなら一度は思うことでしょう。史上最長のホームランは誰が打ち、どれくらい飛んだのか?実測されたものでは、かつて横浜大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)にも在籍したジョーイ・マイヤーが1987年にマイナーリーグで放った177メートルです。しかし野球黎明期の伝説では200メートル級の大飛球を打った選手がいます。ミッキー・マントルです。

1960年9月10日の本塁打は推定飛距離195メートルだとされ、更に1963年5月22日に打ったものは推定飛距離220メートルほどだと算出されました。もっともそれらは見ていた者の記憶から導き出されたものであり、尾鰭がついている可能性もあるわけですが、少なくとも見ていた者の度肝を抜く大ホームランだったのは間違いありません。

またマントルといえばスイッチヒッターとして三冠王を獲った唯一の選手でもあります。更にメジャーリーグのスイッチヒッターで本塁打王に輝いたのは2023年までに4人いますが、マントルだけは4度もその栄冠を手にしています。

今回は稀代の強打者であり、史上最高スイッチヒッターであるミッキー・マントルの凄さが分かる名言や語録を紐解き、その伝説エピソードから努力論にまで迫ります。

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ミッキー・マントルについて

まずはミッキー・マントルの経歴を追ってみます。

本名ミッキー・チャールズ・マントル。1931年10月20日生まれ、アメリカ合衆国オクラホマ州スパビノー出身。セミプロの野球選手でもあった父親が、子どもの頃からスイッチヒッターになるべく練習をさせます。コマース高校ではバスケットボールやアメリカンフットボールの選手としても活躍し、オクラホマ大学からフットボールで奨学金を出すと言う勧誘もありました。高校2年の時、フットボールの練習試合で左脛を蹴られ、骨髄炎を発症。左足切断の危機もありましたが、なんとか回復します。

1949年にニューヨーク・ヤンキースとマイナーリーグ契約をし、インディペンデンス・ヤンキースに所属。翌年ジョプリン・マイナーズに昇格しますが、朝鮮戦争に徴兵されます。しかし持病ともいえる骨髄炎のため徴兵延期となりました。1951年のキャンプでケーシー・スタンゲル監督にその長打力を認められてメジャーに昇格したものの、不振と怪我により不本意なシーズンとなります。

1952年からは打率3割前後、本塁打20本越えの強打でレギュラーを獲得。1955年には初の本塁打王に輝きます。そして翌1956年、イッチヒッターとして初であり、いまだに唯一となる三冠王を達成。MVPにも選ばれます。1957年は2年連続のMVP、1958年3度目となる本塁打王、1960年に4度目の本塁打王となります。1961年は本塁打王は逃したものの自己最多となる54本塁打を記録しました。

その後は1963年に左足を骨折するなど、徐々に故障に悩まされるようになり、1967年には通算500本塁打を達成するも、1968年限りで引退。

メジャーリーグ通算18年間で、2415安打、536本塁打、153盗塁、打率.298。MVP3回、首位打者1回、本塁打王4回、打点王1回、ゴールドグラブ賞1回。

引退後は1974年に野球殿堂入りを果たし、1995年に逝去。まだ63歳でした。

 

私が選ぶ、ミッキー・マントルの凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「あんなに大したことになるとわかっていれば、5度か6度はやっていた」

これは1988年にホセ・カンセコが、メジャーリーグ史上初となるシーズン40本塁打40盗塁を記録したことに対するマントルの感想です。

もちろん見栄やはったりではありません。マントルがシーズン40本塁打を越えたの4回ありますし、盗塁も20盗塁を越えた年があります。昔は現在ほど記録で騒がれることは少なかったですし、足は速いものの骨髄炎や骨折などの怪我もあり、それほど盗塁には積極的ではなかった事情もあります。しかしダブルプレーの数を見ると100打席あたり1.4回であり、俊足なのは間違いなく、能力的には十分に可能だったでしょう。

記録とは積み重ねられたものがあって、初めて発見されるものです。なので古い時代の記録でも新たな発見はあります。近年はセイバーメトリクスという分析方法により、過去の選手でもさまざまな視点から分析され、再評価されています。マントルもWARやwRC+などの指標から、改めて史上最高のスイッチヒッターであると認識されています。

スイッチヒッターはある意味、作られたスキルです。まさに父親の英才教育と自身の努力の賜物だと言えるでしょう。

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【名言語録その2】

「私はしみったれたヒットは打っちゃいけないんだ」

1960年9月10日に放ったホームランは推定飛距離195メートルでした。1963年5月22日の打球は当時のヤンキースタジアム外野最上部の飾りに当たり、その地点が高さ34メートルで飛距離110メートルだったことから、もし飾りに当らなければ220メートルはあったと推定されました。いずれも実測値ではないので真偽のほどはわかりません。しかし1953年4月17日のホームランは推定飛距離173メートル(565フィート)として、ギネスブックに登録されました。

いずれにせよ稀代の長距離打者であったことは間違いないマントル。その上、スイッチヒッターだったのですから驚くしかありません。生涯打率は右打席での.330に対して、左打席は.281。本塁打は右が164本、左が372本。この差は対戦相手に右投手が多かったからで、左右ともに強打だったことは間違いありません。

足も速く、バントヒットもうまかったのですが、マントルは生涯、足の故障に悩まされていました。高校時代に骨髄炎で左足切断の寸前でしたし、1951年には右足の前十字靭帯の断裂、1953年に膝の手術をし、1961年には股関節の膿瘍性敗血症と、選手生命を危ぶむ連続でした。当時のことなので治療も現在ほどの水準ではなく、マントル本人の豪放な性格もあり、完治とはいえない状況でプレーしていたため、チームから盗塁を禁止されることもありました。

晩年になると、そんな振る舞いを後悔することとなります。

「もしこんなに長く生きると知っていたら、もっと自分を大事にしていただろうに」

マントルは63歳で亡くなりましたが、彼にとっては十分に長生きした感覚だったようです。彼は引退後、アルコール依存症になりますが、彼の息子ビリーは薬物乱用の果てに、36歳で警察の留置所で死亡し、もう1人の息子ミッキーjrもアルコール乱用で肝臓ガンに至り、47歳でなくなっています。

「私はいい手本だ。どうか私のようにはならないで欲しい」

彼の一家の末路を知ると、切実な言葉に聞こえます。

 

【名言語録その3】

「もっと、うまいチキンを食べたかったら、雄鶏になるしかないよ」

これは引退後にマントルが開いたフライドチキンチェーンの宣伝コピーで、彼自身が考えたものです。彼のジョークセンスがわかるコピーです。

勝手気ままな面があったといっても、マントルはナイスガイでした。ある試合の終了後に、チームで食事をしようとバスでレストランに向うと、そのレストランは黒人お断りの店でした。アメリカでは1960年代までそういう店があったし、今でも一定の人種以外を露骨に無視する店もたまにあります。その時、チーム唯一の黒人選手だったエルストン・ハワードは、バスの中で待機するしかありませんでしたが、マントルが2人分のサンドイッチをバスまで持ってきて「君と一緒に食いたかったんだ、エリー」と言ったそうです。

ファンにも愛されたマントルは、度々、映画の中でもその名が出てきます。「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」では「ヤンキースが勝つのはミッキー・マントルがいるからだ」と賞賛され、「フレンチ・コネクション2」では、主人公がまったく野球を知らないフランス人刑事に、ヤンキースのテストを受けて合格したことがあると話します。しかしそこには1人凄いのがいて、とても勝てそうにないから刑事になった。その選手がミッキー・マントルだったというオチです。もちろんフランス人刑事にはちんぷんかんぷんです。

多くの人から、その才能や人柄を愛されたマントル。愛されるからこそ、伝説はずっと語り継がれることでしょう。


 

 

名言からの学び

・記録はさまざまな意味で更新されていく

・良くも悪くも手本となるのが先人の役目でもある

・愛されているから伝説になる

 

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