郭泰源の凄さが分かる名言・語録集!愛称「オリエンタル・エキスプレス」の伝説エピソードから努力論まで
日本にやってきた助っ人選手の出身地を見ると、もっとも多いのはやはりアメリカ合衆国です。続いてドミニカ共和国、ベネズエラ、キューバと中米勢が占める中、5番目に多いのがアジア勢トップとなる台湾です。その台湾出身でアジア勢助っ人投手で最も勝ち星を上げているのが郭泰源です。
ロサンゼルス・オリンピックの予選で最速158キロの速球を記録し、「オリエンタル・エキスプレス」の異名で呼ばれた郭泰源。来日後は最速156キロの速球とベースの端から端まで曲がるスライダーを抜群のコントロールで投げ込み、三冠王の落合博満に「手も足も出なかった」と言わせました。
王貞治に憧れて野球を始め、日本ではノーヒットノーランも記録し、2020年には台湾の野球殿堂入りを果たした郭泰源。同時期に活躍した郭源治と共に、二人の郭の成功が台湾の野球界に大きな影響を与え、ジャパニーズドリームを夢見る野球少年が増えました。
今回は「オリエンタル・エキスプレス」郭泰源の凄さが分かる名言や語録を紐解き、伝説エピソードから努力論にまで迫ります。
郭泰源について
まずは郭泰源の経歴を追ってみます。
1962年3月20日生まれ、台南市出身。小学5年生の時に親元を離れ、全寮制の野球クラブに入ります。当初はショートを守っていましたが、彼の強肩ぶりを見た監督が投手転向を勧めます。郭はそれを嫌がっていたものの、投手に転向。高校卒業後は合作金庫に入社、その後、中華民国陸軍野球部に入隊し、IBAFワールドカップで注目されます。
1983年、ロサンゼルス・オリンピックの予選も兼ねたアジア野球選手権大会の五輪代表決定戦で、日本代表を2安打完封。翌年、オリンピック本選のアメリカ戦では球速158キロを計測し、12奪三振の好投を見せるなど、台湾の銅メダル獲得に貢献。その後、メジャーも含めた争奪戦の末、西武ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)への入団が決まります。
1985年、入団1年目から快投を見せ、初登板で完投勝利。6月にはノーヒットノーランを達成します。シーズン途中で肩を痛めて離脱しますが、15試合登板で9勝を上げました。1986年は肩痛の影響も考慮し、シーズン終盤まで抑えに回りました。1987年には東尾修、工藤公康、松沼博久、渡辺久信ら強力投手陣の一角として、初の二桁13勝を上げ、読売ジャイアンツと対戦した日本シリーズでは怪物江川卓に投げ勝ちました。この年から3年連続で二桁勝利を記録します。
肩痛や腰痛など故障に悩まされながらも、その後もコンスタントに投げ続け、通算6度の二桁勝利を上げるなど、常勝ライオンズの柱となります。1991年、9連続完投勝利を記録し、15勝をあげて、シーズンMVPに輝きます。1994年には外国人投手として4人目となる通算100勝に到達。1996年には外国人選手として初のFA権を取得し、外国人枠から外れましたが、翌1997年に引退。
日本プロ野球通算13年間で、117勝、18セーブ、防御率3.16。MVP1回、最高勝率2回、ベストナイン1回、ゴールデングラブ賞2回。外国人投手としての通算117勝は、ヴィクトル・スタルヒンの303勝に次いで歴代2位ですが、スタルヒンは日本の旧制中学を卒業しているので、現在の外国人選手の基準に照らせば外国人枠外となるので、外国人枠内では郭泰源が歴代1位です。
引退後は2013年から2年間は福岡ソフトバンク・ホークスの投手コーチも務め、台湾では様々な国際大会で代表チームの監督や投手コーチを任され、台湾野球の発展に貢献しています。
私が選ぶ、郭泰源の凄さがわかる名言・語録集
【名言語録その1】
「前に突き進む力さえあればプレッシャーはない」
7人兄弟の末っ子だった郭泰源。台湾の生んだ野球の英雄である王貞治のようになりたいと、わずか小学校5年生で親元を離れ、全寮制の野球クラブに入りました。高校2年の時、強肩を見込まれて、ショートからピッチャーへのコンバートを勧められますが、兄のひとりが投手で肩を壊したこともあり、当初はそれを嫌がりました。後に福本豊が「ピッチャーにしておくのがもったいない」と言い、大石大二郎が「12球団一の守備」と評したフィールディングは、ショートしての経験が生きているのだと思います。
ロサンジェルス・オリンピックでの快投は、日米の野球関係者に注目され、メジャーリーグからはロサンジェルス・ドジャース、ニューヨーク・メッツ、セントルイス・カージナルス、トロント・ブルージェイズの4チーム、日本からは読売ジャイアンツ、中日ドラゴンズ、ヤクルトスワローズ、横浜ベイスターズ、西武ライオンズの5チームが彼の獲得を狙っていました。ライオンズ入りが有力となっても、諦めきれなかったジャイアンツが、白紙の小切手を二枚差し出したというエピソードが残されています。
最終的にメジャーリーグではなく、日本のチームを選んだ理由は、台湾での指導が日本式であったこと。そしてライオンズの厚遇だったそうです。事実、故障が多かった郭泰源ですが、まだ投手が酷使されている時代にも関わらず、ライオンズは無理をさせないようにしながら、彼の能力を引き出したのです。
【名言語録その2】
「10年分くらいの経験をしたと思っているよ」
ライオンズに入団して1年目、広岡達朗監督は徹底した選手管理とハードトレーニングで有名でした。「日本語も分からないうえに練習も広岡さんも厳しいから、毎日プレッシャーとストレスを感じて本当にキツイ日々だった」そうで、体感としては「10年分くらい」に感じたようです。しかしそれによって多くのことを学びました。
その結果、「いまの時代でも、おそらくナンバーワンになれるピッチャー」と絶賛するのは、チームの正捕手だった伊東勤です。
伊東は「(渡辺)久信や(工藤)公康、石井(丈裕)とか、当時の西武にはいい投手が一杯いました。でもやっぱり一番は郭泰源です」と振り返ります。「同じくらい球の速い投手はいる。いいスライダーや変化球を投げる投手もいる。でもやっぱり質が違う。比較できる投手はなかなかいないですね」という言葉には説得力があります。
郭泰源のストレートについて広澤克実は「藤川(球児)にも劣らない」と言い、正田耕三は「今までに見たことがない綺麗な回転で低めにズドンとくる」と話しています。そのスライダーについては白井一幸によれば「ベース一個分曲がる」と評し、落合博満は「超一流の上にもうひとつ超がつく本物のスライダー」と絶賛しています。
更に制球力も素晴らしく伊東勤は「どの球種もミットを動かさなくていいくらいの制球力」と評価していますし、ゴールデングラブ賞2回に輝くフィールディングもうまい、本当に隙のない投手でした。
それは「10年分くらいの経験」に感じるほど濃密な時間を過ごし、当時の日本で最強といえたライオンズの中で切磋琢磨した結果であるのだろうと思います。
【名言語録その3】
「今日は私が投げるから寝てていいよ、と言ってあげたんだ」
1991年、9試合連続完投勝利を上げた郭泰源。特にライバルだった近鉄バファローズ(現オリックス・バファローズ)には7勝し、防御率が1点に満たないという状況で、郭曰く「投げていても楽しいし、次の登板が待ち遠しかった」という無双状態でした。そんな時ですから、森監督に「寝てていいよ」と告げても、決して自信過剰ではなかったと言えます。
1985年には日本ハムファイターズ(現北海道日本ハムファイターズ)を相手にノーヒットノーランを達成しましたが、「試合が終わってから初めて聞いた」という集中ぶりでした。
郭は外国人選手が日本で活躍する条件として、早めにチームに溶け込むことや安定した成績を残すことを上げています。また「強い精神力と大きな覚悟を持たなければならない」とも話しています。
「外人枠は嫌だよ。だって私は体格だってキャリアだって、大リーグから来たアメリカ人と全然違うんだから。プロ野球の経験もないのに何で私が助っ人外人なのかなっていつも思っているよ」
その主張には確かに頷けるものがあります。しかしそんな逆境に耐え、毎年のように外人枠とも戦いながら成績を残し続けたことは、まさに「強い精神力」を感じます。
部屋には中森明菜のポスターを張り、パチンコを楽しみ、食事に行っても全員分の支払いをして、決して威張ることがなかったという郭。「台湾人は貧しいから誰でもお金が欲しい。でも最初に井戸を掘ってくれた人のことを忘れないのも台湾人」という姉の言葉を守り、ライオンズ一筋だった助っ人は、助っ人というよりもチームと共に育ったエースだったと思います。
名言からの学び
・縁が人生を決める
・最強の仲間が最強の自分を育てる
・強い精神力が逆境をはね返す糧になる
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