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杉浦正則の凄さや実力が分かる名言・語録集!ミスターアマ野球の伝説エピソードから人生哲学まで


今も昔も、男の子が憧れる職業の上位には、プロ野球選手がランクインしています。しかしそのプロ球団から望まれながらも、入団を拒み、アマチュア選手として3度のオリンピック出場を果たし、「ミスターアマ野球」と呼ばれた選手がいます。杉浦正則です。

オリンピックでの野球は1984年のロサンゼルス五輪から1988年のソウル五輪でも公開競技となり、1992年のバルセロナ五輪でようやく正式競技となりましたが、1996年のアトランタ五輪まで参加選手はアマチュアのみで、2000年のシドニー五輪もプロアマ混合による参加だったため、五輪のためにアマチュアにとどまる選手もいました。

五輪が終わるとプロ入りする選手も多い中、杉浦はアマチュア野球にこだわり、毎年のようにプロから誘いを受けても断り続けました。その結果、五輪に3度も出場し、通算5勝という五輪記録も打ち立てました。

今回はミスターアマ野球と呼ばれた杉浦正則の凄さや実力が分かる名言や語録を紐解き、アマチュア野球のレジェンドの伝説エピソードから人生哲学にまで迫ります。

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杉浦正則について

まずは杉浦正則の経歴を追ってみます。

1986年5月23日生まれ、和歌山県伊都郡出身。橋本高校では甲子園出場はならず、同志社大学に進学。明治神宮野球大会で優勝するなど、好投手としてプロにも注目されます。しかし1992年のバルセロナ五輪を翌年に控え、アマチュア側は五輪候補選手をドラフトで指名しない、いわゆるドラフト凍結選手として杉浦はプロ入りを回避し、日本生命に入社します。

バルセロナ五輪ではクローザーとして活躍し、チームは銅メダルを獲得。その後、再三プロ球団から誘われるものの、オリンピックでの雪辱を望み、社会人野球にとどまります。1992年には都市対抗野球で優勝し、アマチュアのMVPである橋戸賞を獲得

1996年はアトランタ五輪に出場し、惜しくも当時アマチュア最強だったキューバに決勝で敗れ、銀メダルとなります。1997年、再び都市対抗に優勝し、橋戸賞を獲得。日本プロ野球のみならず、ボビー・バレンタインが監督していたニューヨーク・メッツにも誘われますが、杉浦は断り続けます。

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2000年のシドニー五輪は初のプロ選手参加が認められ、プロアマ混成軍となり、杉浦は選手団主将としてメンバーに名を連ねましたが、残念ながらメダルは逃しました。2000年シーズン後に引退

その後は日本生命チームのコーチや監督を務め、高校野球の解説者なども行い、2020年現在は日本生命の首都圏営業第一部法人部長の職についています。

 

私が選ぶ、杉浦正則の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「日の丸を背負って負けた悔しさは、日の丸を背負わなければ晴らせない」

国際試合が持っている独特の雰囲気というのは、WBCでの激闘であのイチローが胃潰瘍になったほど、特別なものです。ましてや世界的なスポーツの祭典である五輪で戦うとなると、そのプレッシャーは相当なものだし、同時に達成感もまた高まるのだと思います。

杉浦の時代、五輪にはアマチュアしか出られませんでした。日本代表として戦うにはアマチュア資格のままでいる必要がありました。当時、アマチュア最強と呼ばれたキューバに勝ち、金メダルをもぎとるために、杉浦はプロ入りを選択しませんでした。プロからは相当な提示額もあったようですし、プロで力を試したいという思いもあったでしょうから、かなり難しい決断だったろうと思います。

 

「最初に出た五輪で金メダルをとっていたらプロに行ったかもしれませんね」

バルセロナ五輪メンバーからその後プロ入りしたのは小久保裕紀、大島公一、伊藤智仁、杉山賢人らがいますし、アトランタ五輪メンバーからは井口資仁(当時は忠仁)、福留孝介、谷佳知、今岡誠、川村丈夫、三澤興一ら、シドニー五輪メンバーからは阿部慎之助、赤星憲広、杉内俊哉、石川雅規、渡辺俊介など、そうそうたる顔ぶれがいます。

そんな中でも中心選手だった杉浦だけに、プロ入りしていれば、きっと相応の活躍をしただろうと想像してしまいます。けれどもそれにも勝る魅力が、五輪にはあったのだと思います。

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【名言語録その2】

「オリンピックって、派手に見えて、しんどいところなんですよ」

アトランタ五輪の際「最初は本当にどうしようもないチーム」で「オリンピックの舞台をプロになるための自己アピールの場だと考えるような若い選手がたくさんいた」のだそうです。もちろんプロを目指すものにとって、どんな舞台もアピールの場ではあります。しかしアマチュア野球だからこそ、目指すものは違っているし、多様な価値を持つ者たちが、ひとつの目標に向かって結束するという意味では、プロにはない難しさがあったはずです。

その当時まだ19歳だった福留孝介は、同じ日本生命の先輩だった杉浦に厳しく叱責されたそうです。福留だけでなく、杉浦はチームメイトの皆に「勝つ気がない奴は日本に帰ってくれ」と言いました。

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「よく言うじゃないですか、『参加することに意義がある』とか『オリンピックを楽しんで』とか。でもそんなことはあり得ない。野球は勝たなければ意味がないんです」

オリンピック対策として、日本代表候補者はオリンピック前年のドラフトで指名しないというドラフト凍結選手制度があったため、プロへのステップの腰掛として社会人野球に所属していた選手たちと、アマチュア野球にプライドを持って取り組んでいた選手たちとの認識のギャップはきっと大きいものだったでしょう。

しかし、そこで実績と経験を積んだ杉浦が、自身の思いと本気のプライドを見せたことで、チームがまとまるきっかけを作り、そして共に勝ち続けたことが、正式競技となって最上位の銀メダルという結果に結びついたのだと思います。

 

【名言語録その3】

「僕らアマチュアは『死ぬ気で行ってるんですよ』と言いたかった。それが五輪です」

シドニー五輪からプロ選手の参加が認められますが、ケガをした場合の補償問題などで選考が進まず、アマチュア側をイライラさせる結果となりました。結局、パリーグは各チームからひとりずつ、セリーグからはふたりだけが選ばれ、宿舎もアマチュア選手は選手村に、プロ選手はホテルに分かれて宿泊するなど一体感を欠き、残念ながら4位に終わりました。

バルセロナ五輪はただ無我夢中で、アトランタでは五輪経験者としてチームを鼓舞し、シドニーではプロアマ混成軍のまとめ役を担った杉浦。

 

「個人よりチームってよく言いますけど、日の丸の重さって、自分への責任感に比例するんじゃないですか」

その言葉の重みは、その後、アマチュアから完全にプロ同士の戦いとなった五輪やWBCといった国際大会のたびに問われ、プロたちも日の丸の重さを本気で感じるようになったように思います。

それは杉浦のようにアマチュアとして、野球の草の根を支えた選手たちのプライドが、土台になっているのではないでしょうか。

 

名言からの学び

・どんな結果も同じ重みがなければ、満足すべきではない。

・プライドはプロにだけ許される特権ではない。

・草の根となる土台をもっと大切にすべきである。

 

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