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下柳剛の凄さが分かる名言・語録集!クビ宣告から復活を遂げた名投手の伝説エピソードからメンタルトレーニング術まで


プロ野球投手の最年長記録を紐解いてみると、その多くが山本昌と浜崎真二のふたりで締められています。しかしタフな投手たちは他にもいます。たとえば最年長ホールド記録を持っているのは工藤公康です。最年長セーブ記録はメジャーリーグでも活躍した斎藤隆です。そして最年長最多勝利記録を持っているのが下柳剛です。

37歳で最多勝利のタイトルを取り、通算600登板を越えたタフな下柳ですが、野武士のような雰囲気からは想像できませんが、無類の愛犬家であり、聴導犬育成の支援をするなど、いろいろギャップを感じさせるところが魅力です。

プロ野球選手としても、激しい感情を見せる面がありながら、大学教授からメンタルトレーニングを学び、人見知りでヒーローインタビューは嫌がるのに、飲み屋に行けば裸になって、股間に白鳥の頭がついたバレリーナ姿になる陽気さも見せます。

今回はクビ同然でトレードされるものの、そこから最年長での最多勝利投手となった下柳剛の凄さが分かる名言や語録を紐解き、名投手の伝説エピソードからメンタルトレーニング術にまで迫ります。

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下柳剛について

まずは下柳剛の経歴を追ってみます。

1968年5月16日生まれ、長崎県長崎市出身。瓊浦高校では甲子園出場ならず、八幡大学(現九州国際大学)に進学しますが1年で中退し、新日鐵君津に入社。チームの都市対抗野球出場に貢献します。1990年のドラフト4位でダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)が指名し入団

入団3年目となる1993年に先発からリリーフまで50試合に登板。翌1994年は62試合に登板し、初の二桁勝利となる11勝をあげます。しかし1995年、交通事故で鼻骨骨折し、シーズン終了後にはトレードで日本ハムファイターズに移籍します。

移籍2年目の1997年に65試合に登板。この年から3年連続で60試合以上に登板します。2000年に先発へ転向。プロ10年目で初完封も記録します。しかし2002年シーズンの不振からオフに阪神タイガースへトレードとなります。

佐藤義則コーチの指導もあり、2003年は技巧派として復活し、10勝をあげて、チームのリーグ優勝に貢献。オフにFAを宣言しますが、チームに残留します。2005年には通算1000奪三振を記録し、シーズン15勝で最多勝利のタイトルを史上最年長で獲得。この年から4年連続で二桁勝利をあげます。

2006年に500登板を達成し、翌2007年は38歳にして開幕投手を務めますが、2011年シーズンで戦力外となり、2012年はタイガースで監督だった星野仙一、投手コーチだった佐藤義則が首脳陣となっていた東北楽天ゴールデンイーグルスに入団しましたが、オフに再び戦力外となり引退。

現役通算22年間で627登板、129勝、22セーブ、防御率3.92。最多勝利1回。

引退後は解説者やタレントとして活躍しています。

 

私が選ぶ、下柳剛の凄さがわかる名言・語録集

【名言語録その1】

「人が多すぎるわ。甲子園球場の5万人は」

お立ち台を嫌がり、そんな口実で逃げ回っていたという下柳。若いうちは無頼派という雰囲気で、ホークスでもファイターズでも様々な逸話を残しています。

たとえばホークスでは、ベンチからの指示でアウトコースにボール球をなげたところ、それを打たれてタイムリーとなり、ベンチで当時監督であった根本陸夫から「ストライクを投げた」と叱責されました。下柳はむきになって「ボールを投げた」と反論したところ、根本は「バットが届いてヒットになったんだからストライクだ」と、30分近くも説教されたそうです。

根本陸夫の凄さがわかる名言・語録集!球界の寝業師の伝説エピソードから人生哲学まで

 

またファイターズ時代には、肘に張りを訴えた若手投手を休ませるため、投手コーチが同様に肘の張りを訴えていた下柳を起用したため、チェンジになると、ベンチへ向ってグローブを投げつけました。するとたまたま横切ろうとしたベテランの田中幸雄の帽子に当たってしまい、当然ですが怒られます。腹の虫がおさまらない下柳はベンチ裏でコーチと言い合いとなり、コーチの足を蹴って、次の日そのコーチの足は湿布だらけだったそうです。

そんな武勇伝を持つ下柳ですが、単に無頼なのではなく、ホークス時代に根本に言われたことは、年を追うごとに正解だと思うようになったそうです。それは独自のメンタルトレーニングの成果もあったようです。

 

「ボールっていうのは、ずっと向こうまでボールやのに、なんでそんな近いとこに投げなあかんのや。バットが届いたらダメなんやって」

それもありベテランになってからの下柳は、コーチにくさいところを突いて、ダメなら歩かせろという指示はやめてくれと言っていたそうです。

「よく考えてみれば、くさいところ突いて投げるようなコントロールがあったら、もともとそんなピンチなんかならんよ、って話なんですけどね」

そんなオチをつけるところも、下柳らしいところです。

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【名言語録その2】

「俺は若手を引っ張るような性格じゃない。でも、若い選手に自分が苦しんでる姿をみせられたらと思う」

人見知りだという下柳だけに、指導力を発揮するというよりも、その後ろ姿を見てくれという思いが伝わってきます。下柳は登板のたびに良い悪いを繰り返す不安定さを克服するために、メンタルトレーニングに取り組んでいました

2001年にオープン戦で1イニング9失点してしまい、たまたまファイターズの若手向けにメンタルアドバイスに来ていた福島大学の白石豊教授に、自ら頭を下げて指導を頼み込みました。その時、下柳は「失点したのはマウンドのせい」と訴えたそうです。そのオフにあった日米野球のために改修し、マウンドが異様に固かったのが原因だと主張しました。しかし白石教授は「外側からのプレッシャーは皆に等しくかかっている」、つまり条件は皆同じだと諭したそうです。

以来、白石教授のアドバイスを入れて、日常生活から感情のコントロールに取り組んだそうです。

 

「最多勝をとりたい」

ある時、そう白石教授に相談すると「願わなければかなわないよ。でも、思っているだけではダメ。そのためにこれから毎日何をしなければいけないのか、ここで経過の目標を立てて欲しい」と言われたそうです。それはアファメーションという最終目標と経過の目標を紙に書いてイメージするという方法です。

の結果、本当に最多勝利を獲得したのですから、その後ろ姿はまさに若手の手本だったろうと思います。

 

【名言語録その3】

「必要とされなくなればクビになるだけ」

ファイターズで不振に陥り、タイガースで見事に復活を遂げた下柳。

 

「日本ハムでクビ同然の時、自分を再生してくれたのは星野監督と佐藤ピッチングコーチですから」

タイガースも自由契約になった後、恩師ともいうべき星野仙一と佐藤義則がいるイーグルスに移籍しましたが、残念ながら結果は残せませんでした。

タイガース時代に下柳らしいエピソードが残っています。ファンの間では「秀太事件」と呼ばれています。

2007年10月1日の横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)との戦いで、タイガースは勝てばCS進出が決定する試合。下柳個人も勝てば3年連続2桁勝利という登板で、5回1死ランナー1塁でショートに入ってた秀太が、まずいプレーでランナーを封殺できず、ランナーは1、2塁。下柳は続く打者をショートゴロに打ち取るものの秀太がエラー。思わずマウンドにしゃがみこんだ下柳はクローブをグラウンドに叩き付けます。満塁となり、続く打者もまたショートゴロ。秀太は慎重になりすぎ、併殺とならずに得点が入り、またも下柳はグローブを叩きつけました。実質3連続エラーといえるプレーです。

しかし下柳自身は冷静だったそうです。グローブを叩きつけたのは意図的で、メンタルトレーニングから、気持ちを鎮めるには一度感情を爆発させるのが有効だと知っていたので、落ち着くためにやったのです。更に主力の鳥谷の故障で、秀太の頑張りが必要だと感じ、なるべく簡単なゴロを打たせて、秀太も落ち着かせようと意図したゴロでもあったそうです。

激しさと冷静さが心の中でぶつけあって、自分を取り戻すという姿は、まさに下柳の野球人生そのもののようです。


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名言からの学び

・経験を積み重ねることで、改めて理解できることもある。

・願いは具体的な目標と努力によってかなう。

・激しさと冷静さは両立する。

 

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