田口壮の凄さが分かる名言・語録集!イチローとも親交の深いメジャーリーガーの伝説エピソードから努力論まで
メジャーリーグ30球団の頂点を争うワールドシリーズ。その優勝を勝ち取るのは至難の業です。これまで日本人メジャーリーガーでその栄冠を勝ち取り、チャンピオンリングを手にしたのは10名います。
その中で2度も手にしているのはわずかに3名。伊良部秀輝と井口資仁、そして田口壮です。
田口は俊足、強肩、巧打の選手として活躍しましたが、イチローと組んだ外野の守備はまさに鉄壁であり、33歳でのメジャーリーグ挑戦も、貴重なスーパーサブとして、あるいは勝負強いクラッチヒッターとして、存在感を発揮しました。
日本では選手会長を務め、アメリカでは移籍後も元ホームスタジアムではスタンディングオベーションで迎えられた田口。その多彩な経験と勤勉さから、今後は指導者としても期待されています。
今回はイチローとも親交の深いメジャーリーガーの田口壮の凄さが分かる名言や語録集を紐解き、2度のワールドチャンピオンに貢献した彼の伝説エピソードから努力論にまで迫ります。
田口壮について
まずは田口壮の経歴を追ってみます。
1969年7月2日、福岡県に生まれ、その後、千葉県、岡山県を経て、中学から兵庫県西宮市で育ちます。小学生の時はソフトボールで活躍し、中学から野球に専念し、西宮北高校から関西学院大学へ進学。
大学野球で活躍し、1991年のドラフトでオリックスブルーウェーブ(現オリックスバッファローズ)と日本ハムファイターズに1位指名を受け、オリックスが交渉権を得て入団。
ルーキーイヤーの開幕戦から先発出場しますが、イップスを発症するなどし、1994年に内野手から外野手へ転向。俊足と強肩を生かし、イチロー、本西厚博、谷佳知らと強力な外野陣を形成します。1995年は阪神淡路大震災で大きな被害を受けた神戸を盛り上げるリーグ優勝に貢献、翌1996年もリーグ連覇を果たします。
2000年にはシドニーオリンピックの日本代表に選ばれ、2001年オフにFAを宣言し、メジャーリーグのセントルイスカージナルスと契約。当初はマイナーリーグとメジャーリーグを行き来する苦しいシーズンを送りますが、2004年にはメジャーに定着し、スーパーサブとして欠かせない戦力となります。
2006年には見事にワールドシリーズ優勝に貢献。2008年はフィラデルフィアフィリーズに移籍し、日米通算1500安打を記録し、ワールドシリーズで2度目の優勝を果たします。2009年はシカゴカブスに移籍。40歳にしてメジャーに昇格しました。
2010年にオリックスバファローズと契約し日本復帰。2011年に故障し、自由契約となるも、リハビリを続けましたが、2012年に引退を表明。
日本プロ野球通算12年で、1219安打、70本塁打、87盗塁、打率.276。ベストナイン1回、ゴールデングラブ賞5回。メジャーリーグ通算8年で、382安打、19本塁打、39盗塁、打率279。
引退後はバファローズの2軍監督、そして1軍コーチを務めています。
私が選ぶ、田口壮の凄さがわかる名言・語録集
【名言語録その1】
「どうやったら自分がこの世界で生き残れるかをいつも考えて、そのためにいろいろ策を練っていました」
晩年には内外野を守れるユーティリティープレイヤーとして活躍した田口ですが、プロ入り直後は内野手としてイップス状態に陥ってしまい、外野への転向を余儀なくされてしまいました。真面目な性格が裏目に出たのかもしれませんが、他にも内川聖一なども同じようにイップスで内野から外野にコンバートされています。
田口がドラフト1位で指名された時のドラフト4位がイチローです。同じ外野手となったためか、何かと2人は比較されることが多くなったようです。
「彼と同期で入ったのは、幸か不幸かわからないですけど」
田口はイチローが引退を発表した後「彼がずっと現役でいた昨日までというのは、良くも悪くも、ずっと(イチローのことを)言われ続けた。彼の場合は、彼に僕の名前がついていくことはないけれども、僕の場合は、僕には必ず『イチローの』という肩書というか、形容的なものがついてきた」と話しています。
田口も優秀なプレイヤーだったからこそ、イチローと共に語られるのだと思いますが、同期とはいえ大学卒の田口が4歳年上であり、いろいろとプレッシャーはあったと思います
しかしイチローという偉大な選手が近くにいたからこそ、メジャーリーグへの指針となり、そのメジャーで活躍する目安を得たのだろうと思います。
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【名言語録その2】
「日本人がたったひとりぽっと来てね。チームに入ってここまでやってきたというのが、形に残るわけですよ」
アメリカのメジャーリーグ時代について語った言葉です。
異国の地で暮らし、仕事をするというのは、生活環境はもちろん、いちいち細かいところまで違いがあり、アプローチの仕方も変わってきます。たとえ野球というルールは同じだとしても、まったく別物という感じを抱くこともあった筈です。
特に田口はメジャーとマイナーを行き来する形となり、専属の通訳などつけられない状況もあって、まさに「たったひとり」というべき状況でした。マイナーリーグは日本の2軍とは違い、最上位のトリプルAであってもなかなか過酷です。
ベテランと言える年齢の田口ですし、日本でならば2軍でもゆっくり体のメンテナンスを行う時間は得られるでしょうが、マイナーリーグでは移動の問題もあって、そうはいきません。
そんな環境で戦い続け、いぶし銀の活躍をみせ、2つのワールドチャンピオンリングを得たというのは、華やかなイチローの戦いとは違うものの、素晴らしい価値のある結果だと言えます。
【名言語録その3】
「やっぱり20年近く負け続けているチームですから、いわゆる負け慣れているところがある。20年分がずっと、伝統的に刷り込まれているわけですから、それを全部払拭することは簡単ではありません」
バファローズの2軍監督としての言葉です。
2019年シーズン終了まで、近年はなかなかチームとして結果の出ないバファローズですが、打者では吉田正尚、投手では山本由伸など、中核となるべき選手も育ってきており、戦力的にはいつブレイクしてもおかしくはないように思えます。
しかし、いくら選手が入れ替わったとしても、器としてのチームは変らず、それがある種の伝統となります。現在のオリックスには田口やイチローがいたブルーウェーブの伝統や、最強を誇った阪急ブレーブスのDNAではなく、なかなか勝ちきれない近鉄バファローズの亡霊が、名前と共に残されている気がします。
普段は温厚な田口ですが、1軍選手に多く不調者が出た時、2軍メンバーも同じく調子が上がらない状況に、「こんだけチャンスがあんのに、何しとんのや」と厳しく喝を入れたそうです。1軍選手をライバルと意識しない感覚を変えたかったのでしょう。
同期ながら年下であるイチローの圧倒的なパフォーマンスを見せられた時に、田口にとって「僕自身、どうやって生きていくのかと考えるきっかけ」となったそうです。
「勝てないと打ちのめされて、でもそこから自分で、じゃあ勝負強いバッターになるにはとか、守備ももっとしっかりやらなきゃいけない、といってところに変わっていったわけです」
自分よりもすべてにおいて先を走る者を見て、心が折れても、なんとか食らいつこうする思いが、田口自身を高めたのです。
「彼と一緒にやったから、僕はたぶん現役を20年できたのかなと思うんです」
結果や個人成績とは関係なく、高め合える関係をライバルと呼ぶのだと、再認識させられます。
名言からの学び
・身近に指針や目標を置くことが成長につながる。
・環境に適応することも才能である。
・ライバルとは拮抗することではなく、何かを高め合う関係である。
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