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豆知識

オリンピック野球の歴代優勝国は?日本代表(侍ジャパン)の歴代監督や過去の順位・結果も確認しよう!

開催まで半年を切った東京オリンピック。2008年の北京オリンピックを最後に実施競技から外れていた野球は3大会ぶりに復活して開催されます。

そこで今回は日本野球が金メダルを獲得した1984年ロサンゼルスオリンピック以降の歴代優勝国や日本代表の歴代監督、過去順位や結果についてまとめてみました。

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オリンピック野球の歴代優勝国(メダリスト)を確認しよう!

まずはロサンゼルス五輪以降の歴代優勝国を確認しましょう。

開催場所 日本代表監督 主な代表選手
ロサンゼルス 日本 アメリカ 台湾 松永怜一 宮本和知、広沢克己、和田豊
ソウル アメリカ 日本 プエルトリコ 鈴木義信 野茂秀雄、古田敦也、野村謙二郎
バルセロナ キューバ 台湾 日本 山中正竹 伊藤智仁、小久保裕紀、大島公一
アトランタ キューバ 日本 アメリカ 川島勝司 福留孝介、井口忠仁、谷佳知
シドニー アメリカ キューバ 韓国 大田垣耕造 松坂大輔、中村紀洋、松中信彦
アテネ キューバ オーストラリア 日本 長嶋茂雄(中畑清) 上原浩治、高橋由伸、城島健司
北京 韓国 キューバ アメリカ 星野仙一 田中将大、ダルビッシュ有、青木宣親

ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)では2度優勝を果たしている日本ですが、意外にもオリンピックでの金メダルは84年のロサンゼルス五輪の1度だけです。84年は予選で敗退し出場権を逃していましたが、世界情勢によりキューバが不参加を表明したことから代替国として選ばれた中での金メダルでした。そのキューバは金メダルをこれまで3回獲得し、プロが解禁されるまで最強のアマチュア軍団として君臨していました。野球大国・アメリカが続き、日本と同じく韓国も1度金メダルを獲得しています。

長らくアマチュア選手のみに参加資格が与えられていましたが、プロ野球選手の出場が解禁された00年のシドニー五輪は日本球界に衝撃を与えました。パリーグ6球団から1人ずつ、セリーグからは6球団で2人の選出に留まりましたが、西武のエース・松坂大輔投手やロッテの黒木知宏投手、オリックスの田口壮選手やダイエーの松中信彦選手などパリーグ各球団の主力がプレーしました。しかし、プロとアマの協力関係が構築されないまま大会は進み、メダルを逃す結果となってしまいました。

04年のアテネ五輪ではシドニー五輪の雪辱を果たすべく、長嶋茂雄監督を起用し初めてオールプロで臨むこととなりました。大会前に長嶋監督が病に倒れ、本大会は中畑清ヘッドコーチが監督に就任し、各球団から2名を上限としてメンバーが編成されました。シドニー五輪からは松坂投手が続けて選出され、他にも巨人の上原浩治投手や高橋由伸選手、ダイエーの城島健司選手などシドニー以上のメンバーが揃いましたが、予選リーグでも苦杯をなめさせられたオーストラリアに準決勝で再び敗れ、銅メダルに終わりました。

金メダルを奪還すべく、前回大会に続いてオールプロで臨んだ08年の北京五輪では大会を通じて4勝5敗と負け越し金メダルどころかメダルにも届きませんでした。各球団からの選出枠の上限を撤廃したものの不調や負傷を抱えた選手が多く、実力を発揮できないまま戦いを終えました。

自国開催となる東京五輪では、過去の反省を活かしてロサンゼルス五輪以来となる金メダルを奪還してほしいものです。

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歴代オリンピック日本代表監督の特徴や采配について

松永怜一監督について(1984年ロサンゼルス五輪)

ロサンゼルス五輪で金メダルに導いた松永怜一監督は高校・大学・社会人と各カテゴリーで監督を務めた後、日本代表の監督に就任しました。選手ファーストの指導・采配をモットーとし、選手の力を最大限発揮できるように「監督・コーチは選手よりそれぞれ8倍、4倍努力しなければならない」と語っています。

大学生7人、社会人13人を束ね、吉田幸夫投手・宮本和知投手・伊東昭光投手を中心とした投手起用をして、当時大学生だった広沢克己選手を4番に据えたこともありました。大会を通して4勝1敗で金メダルに輝き、広沢選手は3本塁打を記録し、後にプロの世界でも打点王を獲得しました。

 

鈴木義信監督について(1988年ソウル五輪)

ソウル五輪で采配を振った鈴木義信監督は社会人野球で監督を務め、金メダルを獲得したロサンゼルス五輪はコーチとして参加していました。後にメジャーリーグに渡り活躍した野茂秀雄投手やヤクルトで活躍した古田敦也選手などタレント揃いのチームを率いました。選手の人心掌握術に長け、特に古田選手とはこんなエピソードがあります。

メガネを掛けていることからプロには捕手としては行けないと考え、代表合宿中に外野転向を申し出たところ「メガネの捕手第1号になればいいじゃないか」と鈴木監督は古田選手に伝え背中を押しました。これで吹っ切れた古田選手はプロの世界で活躍することとなりました。

決勝でアメリカに惜しくも敗れ2連覇を逃しましたが、代表選手のうち13名がプロ入りし、名球会にも3名が入会している黄金メンバーが揃った代表チームでした。

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山中正竹監督について(1992年バルセロナ五輪)

バルセロナ五輪は山中正竹監督が率いました。社会人野球・住友金属の監督を務めて都市対抗野球で優勝するなどの実績を積み、ソウル五輪ではコーチとして代表に携わりました。バルセロナ五輪の日本代表は大学生1人、社会人19人のメンバー構成で臨み、投手陣は杉浦正則投手や伊藤智仁投手、小桧山雅仁投手を中心に戦い、野手では唯一の大学生だった小久保裕紀選手が2本塁打を記録するなど活躍しました。

山中監督は常々「日本代表選手は人間的にも優れ他の選手からも目標とされ、その第一歩は当たり前のことが当たり前にできること」とミーティングで話していました。そんな山中監督に導かれ、日本は銅メダルを獲得しました。

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川島勝司監督について(1996年アトランタ五輪)

福留孝介選手や井口忠仁選手といった後にメジャーリーガーになる選手や三冠王を獲得することとなる松中信彦選手など野手陣にタレントが揃っていたアトランタ五輪の日本代表。率いたのはソウル五輪でヘッドコーチを務め、社会人野球で実績十分な川島勝司監督でした。

予選リーグの4試合を終え1勝3敗と土俵際まで追い詰められましたが、川島監督が「ここからはトーナメントのつもりで戦う」と檄を飛ばしチームは復活し、決勝まで進むことができました。どんな選手でも励まし、とことん練習に付き合う指導法で一人ひとりの選手と向き合い、銀メダルを獲得しました。

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大田垣耕造監督について(2000年シドニー五輪)

初のプロアマ混成チームを率いたのは、アトランタ五輪でコーチとして銀メダル獲得に貢献した大田垣耕造監督でした。西武のエース・松坂大輔投手とロッテのエース・黒木知宏投手を軸にローテーションを組み、近鉄の主砲・中村紀洋選手とダイエーの主軸・松中信彦選手を中軸に起用しました。

しかし、プロ選手の合流が試合の3日前で合宿の時間が取れないなどの制約もあり、起用方法を模索しながらの戦いが続きました。予選リーグの7試合を4勝3敗で終え4位に何とか滑り込みましたが、準決勝を黒木投手で落とし、3位決定戦には松坂投手を送り込みながら敗れ、メダルを逃す結果となりました。

後に大田垣監督は「選手選考ははめては外すパズルのようだった」と話し、プロアマ混成チームを率いることの難しさを語っています。

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長嶋茂雄監督について(2004年アテネ五輪)

シドニー五輪でメダルを逃した日本代表は、アテネ五輪ではプロ選手のみで構成し、監督には長嶋茂雄巨人終身名誉監督を起用しました。予選を兼ねたアジア大会で全勝し五輪切符を掴みましたが長嶋監督は病に倒れ、本大会では中畑清ヘッドコーチが監督に昇格し指揮を執りました。

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監督不在に加え、各球団2選手までの選出上限が重なり万全とは言えない状態でしたが、予選リーグでは上原浩治投手や松坂投手が好投し、城島健司選手や中村選手が本塁打を放つなどの活躍を見せて6勝1敗で1位通過を果たします。

準決勝の相手はオーストラリア。松坂投手を先発させ、7回まで1失点に抑えます。1点を追うその裏の攻撃では2死から一、三塁のチャンスを作り打席には左打者の阪神・藤本敦史選手が向かい、オーストラリアは同じく阪神のサウスポー・ウィリアムス投手にスイッチしました。シーズン中は同じチームで対戦経験がなく、さらに左対左の打者不利な状況でまだ金子誠選手ら右打者が残っていたにも関わらずそのまま打たせて凡退し、1点が遠いまま敗れました。

3位決定戦には勝利して銅メダルを獲得したものの、準決勝での采配はプロ球団の監督や選手たちから疑問の声が上がりました。

 

星野仙一監督について(2008年北京五輪)

アテネ五輪に続いて全選手をプロで構成して臨んだ北京五輪。監督には闘将・星野仙一監督が起用されました。

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「最強の24人」と監督が話したメンバーには、後に海を渡り活躍するダルビッシュ有投手や田中将大投手、青木宣親選手らが選出されました。

豪華なメンバーで臨んだものの予選リーグは4勝3敗とかろうじて4位通過、準決勝と3位決定戦で敗れまさかのメダルなしに終わってしまいました。敗因としては代表選出から本大会までの間に怪我人が相次ぎ本調子ではなかった選手が多かったにも関わらずメンバー変更を行わなかったことや投手起用の失敗が挙げられています。

また、不慣れなポジションで起用した選手が勝敗を分けるエラーを犯したことから采配ミスが指摘され、大きく取り上げられる事態となりました。

 

2020年稲葉篤紀監督の特徴や期待したい采配について

自国開催となる東京五輪で指揮を執る稲葉篤紀監督は、昨年のプレミア12で世界一に輝きました。印象的だった采配は決勝の韓国戦で、先発の山口俊投手が初回に3失点すると引っ張ることなく2回から高橋礼投手に交代したことです。先発投手に出来るだけ長いイニングを投げてほしいと思うところですが、調子がいまいちと見るやすぐにスイッチしました。

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また、主軸として期待していた坂本勇人選手の調子がなかなか上がらない中、チャンスで回ってきた打席で代打を送った試合もありました。思い切った選手交代をできる決断力が采配の特徴です。

短期決戦となる東京五輪でも選手の調子を見極め、その時々の最善策を施し、自らも選手として参加して悔しい思いをした北京五輪のリベンジを東京で果たしてほしいものです。

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オリンピック野球に関する豆知識

オリンピック野球の歴史について

オリンピックでの野球競技は1904年のセントルイス五輪で初めて公開競技として実施されました。毎回開催されていたわけではなく、前回の東京五輪までで6回実施されました。

東京五輪の後は84年のロサンゼルス五輪から毎回行われ、92年のバルセロナ五輪から正式種目になりましたが、北京五輪を最後に正式種目から外れることとなりました。今回の東京五輪では開催都市提案の追加種目として実施されることになりましたが、2024年のパリ五輪では再び外されることが決まっています。

 

オリンピック野球の過去の出場国について

ロサンゼルス五輪以前はエキシビションの意味合いが強く、アメリカ代表が2チームに分かれて実施されるなどメダルを懸けた大会方式ではありませんでした。

ロサンゼルス五輪以降は16の国と地域が出場しています。今回の東京五輪の出場枠は6ですが、過去開催された五輪での出場枠は8で7大会全てに出場しているのは日本だけです。金メダルは3回獲得しているキューバが最高で、次点は2回のアメリカ、1回ずつで日本と韓国が並んでいます。アジア大陸やアメリカ大陸だけでなく、イタリアとオランダのヨーロッパ勢やアフリカ大陸からは南アフリカが出場したこともあり、チーム力に差は見られますが各大陸から出場チームが出ています。

 

オリンピックならではの野球のルールはあるの?

オリンピックにおけるサッカーに出場する選手は前年の12月31日時点で23歳未満の選手に出場資格が与えられていますが、野球には年齢制限はありません。1チームの選手数は24名で、WBCの28名より4人少なくなります。

試合のルールとしては前回の北京五輪では延長11回以降は無死一・二塁で任意の打順から攻撃を開始するタイブレーク制とWBCと同様に投手の球数制限と登板間隔制限が設けられていました。

普段のプロ野球のルールと違うため、タイブレーク制は実戦形式の練習で慣れておく必要があり、球数制限については先発経験のある投手の中継ぎ起用が重要になってきます。

 

まとめ

・日本の金メダルは1984年のロサンゼルス五輪だけで、キューバが最多の3回獲得している。

・アマチュア選手のみの参加だった五輪では常にメダルを獲得してきたが、プロ選手の出場が解禁されたシドニー五輪からの3大会で2度メダルなしに終わっている。

・特にオールプロで臨んだ北京五輪でメダルを逃し、采配ミスが指摘され大きく取り上げられた。

・東京五輪を率いる稲葉監督はプレミア12で優勝経験があり、選手として北京五輪の出場経験もあるため、決断力のある采配が期待できる。

 

自国開催であり、2008年以来の実施となるオリンピックでの野球。稲葉監督や今後選ばれる24人の侍の活躍と金メダル獲得を野球ファンだけでなく国民全体で応援しましょう!

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