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古田敦也の年俸推移や生涯年収総額は?選手としての特徴や性格が分かるエピソードも!


「ミスタースワローズ」と聞いて多くのプロ野球ファンが想像するのは、選手兼監督も務めた古田敦也さんではないでしょうか。

年間盗塁阻止率.644と通算盗塁阻止率.462は現在も破られることのない大記録です。

苦手とされていた打撃もプロ入り後はメキメキと力をつけ、首位打者を獲得するまでに至り、まさに「打てる捕手」を体現していました。

眼鏡がトレードマークの古田敦也さんですが、実はその眼鏡によって一度はプロへの道が途絶えかけていました。

しかし、数々の記録や功績を残したことから「眼鏡でもプロ野球選手になれる」と、日本中の野球少年に夢と希望を与え続けています。

現在は理論的な解説で野球ファンを楽しませてくれている古田敦也さんですが、現役中には日本プロ野球界の発展に大きく貢献してきた人物の一人です。

今回は古田敦也さんの年俸推移や生涯年収総額から見えてくる現役時代の特徴、性格やエピソードを紐解いていきたいと思います。

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古田敦也さんのプロフィールや選手としての特徴

まずは古田敦也さんのプロフィールを確認していきましょう。

職業:元プロ野球選手・元プロ野球監督・野球解説者・タレント・日本名球会副理事長
生年月日:1965年8月日
身長:182㎝
出身:兵庫県
最終学歴:立命館大学
血液型:B型

小学三年生のとき、地元兵庫の少年野球チームに入団。中学時代から注目株でしたが、私立高校からの誘いを断り、公立の兵庫県立川西明峰高校へ進学しています。

その後、立命館大学、トヨタ自動車を経て1989年ドラフト2位でヤクルトスワローズに入団しました。

野村克也監督に送球動作と下半身の強さを見出され、正捕手としてレギュラーの座を獲得。1年目にして盗塁阻止率リーグ1位となり、ゴールデングラブ賞を受賞しています。

91年にはバッティングも開花し、打率.340で捕手としてセ・リーグ初の首位打者となりました。

翌年には自己最多本塁打30本をマークし、名実ともにスワローズの看板として、リーグ優勝に大きく貢献します。

そして古田敦也さんの象徴的な記録と言えば、93年に打ち出した年間盗塁阻止率.644です。

この圧倒的な記録は現在も破られておらず、まさに驚異的な数字です。

98年、日本プロ野球選手会会長に就任

球界を揺るがした再編問題にも尽力し、選手とファンから熱い信頼を寄せられていました。

そんな大事件の翌年05年には通算二千本安打を達成。着実に記録を作っていた最中、06年監督に就任。

野村克也監督以来、実に29年ぶりの選手兼任監督が誕生します。

監督就任後はファンサービスにも力を入れ、地域に根付いたチーム作りに励みますが、肝心なチームは不振を抜け出せず、責任を取るという形で監督を退任。同時に現役引退を決めました。

スワローズ一筋18年。

数々の功績を称え、背番号「27」は準永久欠番となっています。

古田敦也の凄さが分かる名言集!球界レジェンドのリーダー論にも迫る

 

古田敦也さんの年俸推移と生涯年収総額は?

ここでは、古田敦也さんの年俸推移と生涯年収総額と成績を一緒に確認していきましょう。

年度 年齢 所属チーム 年俸 打率 試合数
1990 25 ヤクルト 700万円 .250 106
1991 26 ヤクルト 1920万円 .340 128
1992 27 ヤクルト 6000万円 .316 131
1993 28 ヤクルト 1億1500万円 .308 132
1994 29 ヤクルト 1億8000万円 .238 76
1995 30 ヤクルト 1億6800万円 .294 130
1996 31 ヤクルト 1億8000万円 .256 119
1997 32 ヤクルト 2億円 .322 137
1998 33 ヤクルト 2億円 .275 132
1999 34 ヤクルト 2億円 .302 128
2000 35 ヤクルト 2億円 .278 134
2001 36 ヤクルト 2億円 .324 121
2002 37 ヤクルト 2億円 .300 120
2003 38 ヤクルト 2億円 .287 139
2004 39 ヤクルト 3億円 .306 133
2005 40 ヤクルト 3億円 .258 96
2006 41 東京ヤクルト 2億4000万円 .244 36
2007 42 東京ヤクルト 6000万円+功労金5000万円 .333 10
合計(1989年の契約金4300万円を含む) 31億2720万円 .294 2008

※出来高などは含んでおりません。

前述の通り、初年度より野村監督に才能を見出されレギュラーに定着していた古田敦也さんは、2年目から着実に年俸が上がっていることがわかります。

特に2年目以降は、打率3割をキープし、93年には捕手として盗塁阻止率6割を達成したことで1億の大台に乗りました。

前年の怪我の影響で95年は76試合の出場に止まりましたが、06年の監督就任まではコンスタントにレギュラーとして出場していました。

98年からは複数年契約を結んでいて、年俸に変化はありませんでしたが、キャッチャーでありながら年俸2億は破格と言えるでしょう。

現役最終年の大幅ダウンは、当時かなり話題になっていました。

選手兼監督という難しい立場で、選手として力を出し切れなかったことが原因とされていますが、この当時監督としての古田淳也さんは、チームの戦力補強を第一に考えていたと言います。

実際に、監督に就任して以来は出場試合数は激減し、成績も自己ワーストを記録していました。

最終年の大幅減にはチームの威信を賭けた男気すらも感じます。

生涯年収総額も30億円超とレジェンドの名にふさわしい凄まじい金額ですね。

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古田敦也さんの性格が分かるエピソードとは?

1987年ドラフトではメディア用の雛壇が用意されるほどの注目株だったにも関わらず、奇しくも指名漏れしています。

当時の古田敦也さんは大学4年生で日本代表に選出されるほどの逸材でしたが、まさかの指名漏れ。その理由はトレードマークにもなっている「眼鏡」だったと言います。

キャッチャーというポジションで視力が弱いことは致命的であるという風潮によって、確約とさえ言われていた球団すらも指名を見送ったのです。

このドラフトでの悔しさが反骨心となり、トヨタ自動車入社後は同社の硬式野球部にて1年目から正捕手として、チームの主軸となり都市対抗野球で活躍を見せました。88年のソウルオリンピックでは日本代表の捕手に大抜擢されています。

決勝のアメリカ戦に破れはしたものの、日本代表は見事銀メダルを獲得。

これらの社会人時代での活躍に惚れ込んだ当時のスワローズスカウト担当が、眼鏡への先入観を捨てて獲得に踏み切ったのです。

古田敦也さん本人も、18年間のプロ生活で「眼鏡をかけてやってこれたこと」を誇りに感じているそうです。古田敦也さんに習って眼鏡をかけながらも野球を続けているという人は少なくないでしょう。

スワローズ入団後は前述の通り目をみはる活躍で球界を代表するキャッチャーになった古田敦也さんですが、球界再編問題では選手会長として経営陣と真っ向から戦う姿勢をファンに見せてくれました。

NPB初のストライキを決行し、波紋を呼びましたがその苦渋の決断に会見で涙を流す姿は印象的でしたね。

また、監督時代はファンサービス向上の呼びかけも積極的に行っていて、現在のイベント要素のある試合や、特典グッズなどを先駆け的に取り入れていました。

 

選手としてはもちろん一流だった古田敦也さんですが、真に野球を愛する人であり、常に球界の未来を見据えていたことがわかります。

 

古田敦也さんのことが更に好きになる豆知識

プロスポーツ選手には食事や生活環境に置いてルーティンを作る人が多いですが、古田敦也さんはあえてルーティンを作らないそうです。

全国各地で試合のある野球選手は移動時間も長く、睡眠や食事にも神経質になりがち。

しかし、ストイックすぎる生活はかえってストレスになると考えていて、移動中であっても好きな場所で寝て、様々な土地で好き嫌いなく食事を摂るようにしていました。

それは、どんな環境にあっても心身ともにタフでいるための鈍感さであると言います。

硬派なイメージのある古田敦也さんですが、こうした力の抜き方がわかっていたからこそ長年第一線で活躍することができたのかもしれません

 

まとめ

・古田敦也さんは「眼鏡」を理由に指名漏れを経験している。

・野村克也監督以来、29年ぶりの選手兼任監督を務めた。

・最大年俸は3億円。しかし、現役最後は大幅減で6000万。

・シーズン盗塁阻止率.644と通算盗塁阻止率.462は現在も破られていない大記録。

・選手、監督、選手会会長として奮闘しプロ野球界の発展に貢献してきた。

 

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