東尾修監督の凄さが分かる名言・語録集!ケンカ投法にして200勝投手の伝説エピソードから人生哲学まで
ピッチングの原点は外角低めだといいます。一番長打が出にくいコースだからです。しかしそれを生かすには内角に厳しい球を見せておく必要があります。右打者の内角へ鋭いシュートを投げ込み、日本最多記録の165死球を与えるも、キレのいいスライダーとのコンビネーションで打者を翻弄し、251勝をあげたのが東尾修です。
弱小球団の憂き目から、通算の負け数が勝ち星より多い投手だったのが、広岡達郎と森祗晶という「管理野球」で、自己管理を求める監督たちの下、常勝チームの負けないエースに変貌するという選手生活を送りますが、自らが監督に就任すると管理よりも自主性を重んじる形をとりました。
日本プロ野球史に残る「黒い霧事件」で何もかもガタガタになったチームと、食事など細かな面までしっかりと管理されたチームと、その両極端なチームでエースとして活躍した経験からか、世代交代期にあった難しいチームを監督としてうまくシフトさせた手腕は、もっと高く評価されるべきでしょう。
今回は死球をいとわないケンカ投法で200勝を越える勝ち星をあげ、監督としても活躍した東尾修の凄さが分かる名言や語録を紐解き、伝説エピソードから人生哲学にまで迫ります。
東尾修のプロフィール詳細
まずは東尾修の経歴を追ってみます。
1950年5月18日生まれ、和歌山県有田郡出身。後に箕島高校の名物監督となる尾藤公に口説かれて同校に入学。エースとして選抜初出場に導きます。1968年にドラフト1位で西鉄ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)に入団。
1年目で野手転向を申し出るほど、プロの厳しさを痛感しますが、1969年に球界を大きく揺るがした八百長スキャンダルである「黒い霧事件」が発生。エースで103勝していた池永正明ら4投手が永久追放処分(池永は2005年に解除)となり、投手不足から1軍で投げることになります。
「黒い霧事件」の結果、戦力不足の上、ダーティなイメージもついて観客動員も減らした西鉄は、球団経営を放棄しますが、九州にチームを残したいという地元の要望から、太平洋クラブが5年、クラウンライターが2年経営しますが、チーム再建は望めませんでした。そして1978年に西武グループが買い取ってフランチャイズを埼玉県所沢に移転しますが、その間に東尾は着実に力をつけ、1975年には最多勝をあげるなど、パリーグを代表する投手になりました。
しかし万年最下位候補の弱小チームということもあり、1972年には25敗、1977年にも20敗するなど、通算でも負け数が多く、勝ち星を上回っていました。
新生ライオンズとなりエースとして奮起した東尾は、「球界の寝業師」といわれた根本陸夫の手腕もあり、大胆なトレードやドラフト戦略で常勝チームとなったライオンズの柱として活躍。1986年の契約更改で日本人投手初の1億円プレーヤーとなります。
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その後、徐々に勝ち星の方が増え、1988年に引退した時には、現役通算20年で251勝247敗と勝ち越し、防御率3.50、MVP2回、最多勝2回、最優秀防御率1回、ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞5回という記録を残します。
1995年からはライオンズの監督となり、1997年と98年にリーグ連覇するも、日本一にはなれませんでしたが、通算7年間の監督で1度もAクラスから落ちることがありませんでした。しかも歴戦のベテランたちから若手への世代交代期でもあり、ベテランを腐らせず、若手にチャンスを与えた手腕は見事だったと思います。
その後は解説者やタレントとしても活躍しています。
私が選ぶ東尾修の凄さがわかる名言・語録集
【名言語録その1】
「自分にとっての誇りは、登板数の多さと被本塁打の多さ、そして20敗も2回経験していることかな」
チーム事情から、いきなり実戦に投入された東尾ですが、通算247敗というのは史上4位となる記録です。697登板は歴代17位ですが、投球回の4086回は歴代8位です。そして被本塁打は412本で歴代3位。もちろん死球は歴代最多です。いかにタフに投げ続けたかがわかる数字です。
「当たってもしょうがない」とうそぶき、1986年にはバファローズのデービスに当てて、マウンド上でパンチを食らった東尾。
これらから、東尾は本塁打を打たれても果敢に内角を攻めた投手、というのがはっきりとわかります。その投球スタイルからケンカ投法とも呼ばれ、右打者の内角をえぐるシュートのイメージが強いのですが、実を言えば東尾の球種で一番いい球はスライダーです。それを生かすためにあえてケンカ投法のイメージを定着させたといえます。
「真っ直ぐと同じ軌道のインハイからスライダーを曲げる。相手が逃げるから、ボールからストライクになるスライダー。これが僕の一番の武器になりましたから」
東尾はテレビの「球辞苑」という番組でそう語っています。最高の球を生かすために、相手に別の球種をイメージさせるという戦略の投球術だったのです。
【名言語録その2】
「200勝までは自分のために投げていたけど、残りの51勝はチームのために投げていた」
200勝以上あげた投手で負け数の方が多いのは、254勝255敗の梶本隆夫のみです。東尾はぎりぎりのことろで勝ち星が上回っています。
負け数の多さは弱小球団で投げ続けていたこともあるのでしょう。201勝196敗の平松政次や197勝208敗の長谷川良平なども、前者は大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)、後者は広島カープが共に万年最下位争いをしていた時代のエースです。
しかし運よく東尾はベテランの域に達した頃、ライオンズの再生期にぶつかりました。いろいろと確執はあったようですが広岡監督によってチームは強く生まれ変わりました。勝ちより負けが多くてチームに貯金をつくれない投手はエースとは呼べないと広岡に言われた東尾も、奮起した結果、プロとして勝つことの意味を改めて感じたのだと思います。
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広岡と森はV9巨人のレギュラーでした。ふたりは勝者のメンタリティは、勝つことでしか得られず、しかもそれはチーム内に伝染するとよく理解していたのでしょう。
若い頃は酒にまつわる武勇伝や、加藤初と朝までポーカーをやって、翌日のダブルヘッダーにそれぞれ登板し、共に完投勝ちしたといった伝説を残す東尾ですが、晩年にはチームメイトに勝者のメンタリティが伝わるよう勝利のために投げ続けていたのです。
【名言語録その3】
「このボールの重みを感じて欲しい。君が200勝したら返してくれ」
監督時代の東尾は、1998年のドラフトで平成の怪物こと松坂大輔を1位指名しました。ベイスターズ以外の指名ならば社会人野球に進むと公言していた松坂と交渉の際、自らの200勝した時のボールを渡して、上記のように言ったそうです。
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松坂はライオンズ黄金期のエースとして、高卒3年目で1億円プレーヤーになります。日本人投手で初の1億円プレーヤーは東尾ですが、その時、球団の提示額は9900万円で、「残り100万円は自分で出してでも、最初の1億円投手と呼ばれたい」と言うのを聞き、球団は1億円にアップしたそうです。それは単に金額の問題ではなく、リーグを代表するエースのプライドだったのでしょう。
東尾が監督になった頃には、彼と同時代にライオンズを引っ張り、いずれも年俸1億円を超える選手になった石毛宏典、秋山幸二、清原和博、工藤公康、渡辺久信らがチームを去ったり、力が衰えて来たりしていた時期で、世代交代が急務でした。そんな中でベテランをうまく使いつつ、松坂や松井稼頭央、和田一浩など新戦力を成長させながら、リーグ連覇の他、チームのAクラスを維持し続けました。
監督としての東尾は、広岡以来の管理野球ではありませんでしたが、それは今ならば当然とか常識とも言える内容も多く、ライオンズの選手にはすでに浸透していたこともあるので、あえて緩めるべきところを緩めたのだろうと思います。
松坂は2018年シーズンに復活し、2018年終了時点で日米通算170勝を達成しています。果たしてあと30勝して東尾にボールを返すことになるのでしょうか。
名言からの学び
・負の歴史もまた自分を作り上げたものである。
・勝者のメンタリティは周囲に伝染する。
・先人は後から来る者のために道を拓かねばならない。
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