山崎武司の凄さがわかる名言・語録集!天才ホームランバッターの伝説エピソードから人生哲学まで
日本プロ野球の長い歴史の中で、セリーグとパリーグの両リーグで活躍し、そのどちらでも本塁打王に輝いた選手はわずかに3名しかいません。ひとりは史上最多三度の三冠王を取った落合博満、もうひとりは助っ人最多本塁打のタフィ・ローズ。そして41歳で39本の本塁打を放ち、シーズン100打点の最年長記録を打ち立てた山崎武司です。
1996年に28歳でセリーグの本塁打王となり、なんと11年後の2007年に39歳でパリーグの本塁打王となりました。42歳の時にも28本の本塁打を放ち、衰えを知らぬパワーを見せつけ、世の中年世代に力と勇気を与えました。
30代後半にはチーム構想から外れ、引退も考えた山崎ですが、球界再編という野球界にとっての大事件で生まれた東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍し、名将野村克也との出会いによって更なる飛躍を遂げました。
バットを持って監督室で暴れたかと思えば、子どものようにスーパーカーを愛し、地元で火災を見つけ、炎の中に飛び込んで子どもを助けて表彰されたこともあります。彼の東日本大震災に対する復興支援に感謝し、宮城県栗原市の球場は「山崎武司球場」の愛称で呼ばれています。
今回はまさに気は優しくて力持ち、山崎武司の凄さがわかる名言や語録を紐解き、天才ホームランバッターの伝説エピソードから人生哲学にまで迫ります。
山崎武司氏に関するプロフィール
まずは山崎武司の経歴を追ってみます。
1968年11月7日生まれ、愛知県知多市出身。野球の名門である愛知工業大学名電高校を卒業、1986年、地元の中日ドラゴンズにドラフト2位で入団。
1991年に一軍初出場し、捕手から外野手に転向。1995年にようやく二桁の本塁打を放つようになり、翌年星野仙一が監督に就任と共にレギュラーとして抜擢され、シーズン39本で本塁打王に輝きます。
その後、相次ぐ怪我や守備の負担などから、なかなか安定した成績を残せませんでしたが、2001年にFAを宣言し、横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)への移籍を決めかけましたが、山田久志監督の慰留でチームに残留。しかし不調が続き、2002年にオリックスブルーウェーブ(現オリックスバファローズ)にトレード。2004年に戦力外通告を受け、引退を考えたものの、球界再編問題の末に出来た東北楽天ゴールデンイーグルスの初代監督に就任した田尾安志に口説かれて入団。
田尾によって打撃を見直し、更には2006年に監督就任した野村克也の薫陶を受け、配球を読むバッティングを身につけることで、再びブレイクし、39歳にして43本塁打、108打点を叩き出し、二冠王に輝きます。
その後もチームの主将で4番バッターとして活躍し、誕生したばかりの弱小球団を支えます。2011年、東日本大震災による様々な影響の中で奮闘するも、この年に就任した星野監督のチーム構想から外れて、戦力外となり、2012年からドラゴンズに復帰。2013年シーズンをもって引退しました。
現役19年間で、通算403本塁打、1834安打、1205打点、打率.257、本塁打王2回、打点王1回、ベストナイン3回。40代100本以上の本塁打を打ったのは門田博光に次いで史上2人目です。
引退後は解説者の他、レーサーやテレビのバラエティ番組でも活躍しています。
私が選ぶ、山崎武司の凄さがわかる名言・語録集
【名言語録集その1】
「おっさん、ボケェ!俺を使えば打てるんじゃ!」
これは1999年9月26日の対阪神タイガース戦で、山崎が逆転サヨナラ3ランを打ち、ベンチにいた星野監督に向かって放った言葉として有名です。
ドラゴンズでは山田久志監督に激しく詰め寄り、オリックスでは伊原春樹監督に「ボケ」と言って監督室にバットを投げつけるなど、その傍若無人さから「ジャイアン」とあだ名をつけられた山崎ですが、袴田英利は「あのいかつい顔にごまかされている」と話しています。
山崎の迫力に呑まれた若手投手は、厳しい内角球を投げられないのを見越して、外角球を狙い打ちするのだそうです。
「追い詰められたときに逆転できるきっかけになるのは、やはり気合とか根性だと思う」
そう言うだけあって、タイガースの湯舟敏郎との対戦で手を骨折し、それでも思わず振ったら決勝本塁打になったというエピソードがあります。
「最後に『コノヤロー』って気持ちを出していければね。古い精神かもしれないけど、それってプロには必要だと思うんですよ」
まさにその気持ちが無ければ、40代で自己ベストを更新し続けることはなかったのだろうと思います。
【名言語録集その2】
「最終的に勝つのは、どんな状況でも日頃から小さなことをコツコツと努力できる人間だと僕は思っています」
オリックスを戦力外になり、イーグルスに入団しますが、その2年目に野村克也が監督に就任したと聞いて「俺は終わったな」と思ったそうです。それまでも監督とそりが合わずにチームを離れていた山崎ですし、理論派の野村に対して感覚派の山崎は合わないだろうと考えたのも無理はありません。
ところがこの出会いが山崎をより高みに導きます。「もっと勉強しろ」と野村に言われ、いろいろと学ぶうちに、その努力の成果が目に見えて現れるようになり、勉強するのが楽しくなったそうです。それまでは球種を読むことなどしなかったのが、考えるバッティングをすることで、若い頃以上の成績を残しました。
野村克也監督の名言!苦労人の努力やリーダー論など人生哲学に迫る
野村は山崎の性格を見極めて、気持ちよく野球に向かわせ、更に配球を読む技術を伝授し、稀代のスラッガーを、パワーアップして甦らせたのです。
「やっぱり、楽天を、仙台を離れることに関しては未練たらたら」
そんな愛着のあるイーグルスを去ることになった時も、野村に相談をしたそうです。野村は「ユニフォームを脱ぐときは球団ではなく自分で判断しろ。まだできると思っているのなら、最後まで頑張ってみなさい」と伝え、山崎はドラゴンズ復帰を決めました。
【名言語録集その3】
「カッコいいオヤジであるために、地元でもうひと花咲かせたい」
「人間、一度クビになると気持ちが楽になる。昔は野球をやめたらどうしようという恐怖があったんですが、今はダメならやめればいい。それだけ」
その言葉は裏を返すなら、ダメでなければ続けろということでもあります。恩師野村のアドバイス通り、「まだできる」と感じていたのでしょう。
「僕を甦らせてくれたのは間違いなく仙台」
「仙台は寒いけど人の心はどこよりも温かい」
そんな思いもありながら、地元名古屋に戻る決心をした山崎ですが、仙台での最終戦後は球場の正面入り口がファンでいっぱいとなり、山崎を見送りました。それほどチームの顔として愛されました。
「現役を続けるわけだから、名古屋のファンをはじめ、みんなから『ありがとう』って言ってもらいたいじゃない」
最後はプロ入りした地元球団で現役を終えた山崎ですが、大きな活躍は見せられなかったものの、名古屋のファンはもちろん、みんなから「ありがとう」の歓声を受けて引退できたことは、彼の紆余曲折があった野球人生において、素晴らしい幕引きだったと思います。
名言からの学び
・気合や根性もひとつの武器である。
・いくつになっても自分を成長させる学びはある。
・終わり良ければ総て良し。
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