沢村栄治の凄さがわかる名言集!球界レジェンドのエピソードや人生哲学にも迫る!
2018/08/23
現在、日本プロ野球で、その年に最も活躍した先発投手に贈られる最高の栄誉は沢村賞です。
その賞に名前を残すのが戦前のスター、沢村栄治投手。
ベーブ・ルースやルー・ゲーリックといった大打者をそろえたアメリカメジャーリーグ選抜チームと対戦し、惜しくも1-0で敗れるも、その好投ぶりは伝説となっています。
まだ試合が少ない時代にも関わらず、わずか5年で通算63勝をあげ、防御率1.74。長い日本プロ野球の歴史の中で、ノーヒットノーランを3度記録しているのは、他に外木場義郎(うち一度は完全試合)だけです。
しかし戦争という悲劇によって投手の命である肩を痛めただけではなく、本当にその命も奪われてしまった悲運の投手です。
今回はわずか27歳で南の海に消えた、球界レジェンド沢村栄治の凄さがわかる名言やエピソードからその人生哲学にも迫ります。
沢村栄治について
まずは沢村栄治の経歴を追ってみます。
1917年2月1日生まれ、三重県宇治山田市(現伊勢市)出身。京都商業学校(現京都学園高校)で当時の中等学校野球で活躍し、1934年に中退後、日米野球に参加。通算714本塁打のベーブ・ルースや「アイアンホース」ルー・ゲーリックなど、まさにオールスター級の選手がそろったアメリカ相手に5試合登板。4敗しますが、静岡草薙球場で登板した際には、8回を1点で抑える快投を見せます。
その後、大日本東京野球倶楽部(現読売ジャイアンツ)に入団。1936年には日本初のノーヒットノーランを達成。翌年には2度目のノーヒットノーランを記録し、日本初のMVPに選ばれます。
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しかし徴兵により陸軍に入隊。1938年から40年まで日中戦争に従軍。除隊するとプロ野球に復帰しますが、兵役で体を痛め、サイドスローに転向。苦しみながらも3度目のノーヒットノーランを達成します。
1941年から翌年まで予備役として軍に召集。予備役解除後、再度プロ野球に戻りますが、体はもうボロボロで1944年に解雇。同年召集されてフィリピンへ向かう途中、アメリカ潜水艦の攻撃を受けて戦死。27歳でした。
わずか現役5年で、MVP1回、最多勝利2回、最優秀防御率1回、最多奪三振2回、そして3度のノーヒットノーランを達成。背番号14はジャイアンツの永久欠番となり、戦後は悲運の名投手として伝説になり、ドキュメンタリーや漫画などでも取り上げられました。
私が選ぶ、沢村栄治の凄さがわかる名言集
「どんな球でも一投、これすべて創造だと思います。この球は自分にとってはじめて投げる球だと思うと、なんともいえぬ感動が胸にこみ上げ投球に熱が入りました」
野球が好きだったのだなと感じさせる言葉です。
沢村といえば快速球とドロップ(縦に落ちるカーブ)が有名ですが、名将三原脩は400勝の金田正一や「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれた稲尾和久、シーズン401奪三振の江夏豊といった大投手を引き合いに出し、沢村が一番速かったと言っています。
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京都商時代の捕手だった山口千万石は「球ふたつ分、ホップした」と証言していますし、じゃじゃ馬と呼ばれた青田昇は沢村自身の言葉として「ベース版の手前めがけて投げたら、真ん中のストライクになった」と語っています。
セリーグ審判部長だった島秀之助も「とにかく伸びがすごかった」と同時に「球質は軽かったので当てただけででもよく飛びました」と対戦した記憶を話し「当たればの話ですがね」とも付け加えています。
沢村栄治記念館に残るボールの握りの写真を見ると、真っ直ぐは通常の握りではありません。指を少しずらしているので、もしかしたらジャイロ回転がかかっていた可能性もあります。
一方、ドロップですが、三原脩は「速球とドロップのスピードが変わらなかった」と証言しています。「一回浮き上がってから一尺(約30センチ)落ちた」とも語っています。また対戦したヤンキースのゴーメッツも「球速変化のないカーブ」と表現していますから、かなり速度のあるカーブだったようです。
握りの写真を見るとこれもまた独特です。かつてヤクルトスワローズで活躍した伊藤智仁の高速スライダーと似た握りなのですが、福岡ソフトバンクホークスの石川柊太はその握りを真似してパワーカーブを投げています。
そう考えると沢村のドロップは高速で縦に落ちるスライダーか、パワーカーブという感じだったのかもしれません。
いずれにせよ、それらの投球を純粋な感動を胸に投げ込まれたら、なかなか打てなかったのも頷けます。
「人に負けるな。どんな仕事をしても勝て。しかし、堂々とだ」
弟さんへの手紙にあったという言葉です。勝負師としての負けん気の強さと共に、「堂々と」というあたりに人柄が現れています。
初めはオーバースローから投げ下ろし、快速球を投げ込んでいましたが、軍で重い手榴弾を投げ過ぎて肩を痛めた後は、サイドスローに変え、更にアンダースローにまで挑戦したようです。
ちなみに軍では、連隊対抗手榴弾投げで78メートルを記録して優勝したそうです。しかしそれが投手の命である肩を痛める原因になったと言われています。その頃使われた日本陸軍の十年式手榴弾は重さ530グラムで、硬式ボールの3倍以上の重量です。砲丸投げの男子ユース規格が5キロですから、それを80メートル近くも投げたのですからすごいですし、肩を痛めてしまうのも当然です。
しかも左手には銃弾を受け、マラリアにも感染したそうですから、野球をやるのは無理な体でした。
それでも沢村は投球フォームを変え、投げ続けました。
本当に野球が好きだったのだろうと思います。
当時の人たちは戦争の真っただ中にいました。
2018年に100回を迎えた甲子園大会(当時は沢村も活躍した中等学校野球大会)も、1942年に軍主導による幻の大会がありますが、記録より抹消されています。しかしそれは球児たちの問題ではありません。
沢村が望んだように、堂々と野球をやれることは平和でもあるということだと、つくづく思います。
「芝生の上に立って白いボールを握ったときのうれしさは、死線を乗り越えてきたものだけにしか味わえない」
まさに戦争体験者にしかわからないことなのですが、平和な時代だからこそ忘れてはならない言葉だと思います。
残された沢村の数少ない画像や映像から、球速は160キロあったというような推測もありますが、おそらく体感速度としては、そう感じるほどだったのでしょう。しかし沢村は身長174センチと、現在のプロ選手としては小柄な方であり、いかに強肩とはいえ、160キロは難しかったのではないかと思います。古い時代ですし、戦争を挟んでいるだけに、その頃の伝説の多くはなかなか実証できません。
ただ確かに言えることは、沢村や同時代の野球人たちは戦火の中、ただ無心に野球をやれる喜びを知っていたということです。
戦争と比べるわけにはいきませんが、東日本大震災の際にも、野球を見たりやったりできる喜びを感じ、東北楽天イーグルスの嶋基宏の「見せましょう、野球の底力を」というスピーチに感動した人も多かったはずです。
沢村の好敵手だったタイガースの景浦将や、松坂大輔より前に甲子園決勝でノーヒットノーランを達成した嶋清一など、野球殿堂博物館には戦没野球人モニュメントには167名の名前があります。その他にも無名の野球好きがたくさん犠牲になっています。
沢村栄治の伝説が語られ続けるということは、そういった戦争の犠牲や悲劇も同時に語られるということでもあり、私たちにもできる平和へのメッセージでもあるのです。
名言からの学び
・初心忘るべからず。どんな一歩も、毎日これが新しい始まりだと思えば、感動や感謝を忘れない。
・何事も勝つことは大事だが、堂々と勝つことがもっと大事である。
・平和だからこそ、できることが増えるし、好きにそれを選べる。そのためにも平和ではなかった時代を忘れてはならない。
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